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【第25回】みちびと紀行 ~山の辺の道を往く(大和の土木技師団) みちびと紀行 【第25回】

纏向日代宮跡にあるミカン園の写真纏向日代宮跡にあるミカン園

相撲神社から坂道を下り、纏向日代宮跡(まきむくひしろのみやあと)を過ぎて山の辺の道に戻る間に、「穴師(あなし)地区のミカン栽培」についての説明板を見つけた。
この辺り一帯は、どうやら「ミカン栽培発祥の地」でもあるらしい。
これには、「古事記」と「日本書紀」に同様に記されている、田道間守(たじまもり)の物語が関係しているようだ。
田道間守は、垂仁天皇(すいにんてんのう)の命により、不老不死の霊薬「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」(現在名:ヤマトタチバナ)を求めて、「常世(とこよ)の国」に遣わされた。

ヤマトタチバナの写真ヤマトタチバナを復活させる活動も進行中
(出典:なら橘プロジェクト推進協議会)

10年の歳月を経て、彼が持ち帰ったヤマトタチバナが、最初に植えられた場所が、宮殿があったこの穴師だった、と書かれている。
それ以降、この土地の人が丹精込めてその木を育て、代々の天皇に献上されるようになり、宮殿に「右近の橘、左近の桜」として植えられるようになったらしい。
なるほど、毎年ひな飾りを出す時に、どちら側に置くのかいつも悩むという、あのミカンの木だな。

垂仁天皇陵の写真
唐招提寺のそばにある垂仁天皇陵。右手前の小島は田道間守のお墓(出典:近畿日本鉄道)

田道間守は、「但馬国の国守」とする説もあるようで、実際に兵庫県豊岡市には中嶋神社という田道間守を主祭神とする神社があって、「お菓子の神様」として祭られている。
記紀(古事記と日本書紀)には、田道間守が「非時香菓」を持ち帰ったところ、その前年にすでに垂仁天皇は崩御されていて、天皇の御陵で嘆き悲しんだ末に死んでしまった、と記されている。
宇宙戦艦ヤマトが、イスカンダル星から放射能除去装置を運んで戻ってみたら、すでに地球上の生物は死滅していた、というようなものだ。(わかる人にはわかる。)
山の辺の道に再び合流する場所には、ミカン農家の軒先に、秋の陽を浴びて艶やかなミカンが並べられていて、ここを通る人たちが買っていた。
遠い昔に、田道間守が10年の歳月をかけて持ち帰ったヤマトタチバナの子孫が、今もここで栽培され、ハイカーたちの喉を潤している。
彼の使命感は、こうして実を結んでいる。

山の辺の道は、ここから眺望がひらけた野の道が続く。
気のせいではなく、若い世代からシニアにわたってカップルと思しき人たちを多く見かけるようになってきた。
二匹のとんぼが舞うように、のどかな景色の中を歩いていく。

景行天皇陵の写真景行天皇陵が見えてきた

景行天皇陵が見えてきた。
宮殿のあった纏向日代宮跡から見下ろす位置にある。
纏向遺跡(まきむくいせき)の発掘調査でわかったことは、ここは他の遺跡と明らかに違い、農耕具がほとんど出土せず、代わりに土木工事用の工具が圧倒的に多いこと。
三輪山の砂鉄と製鉄技術を大いに活用して、石を穿つ工具をどんどん作って普及させたのだろうか。
纏向日代宮跡の現在の地名も、「奈良県桜井市穴師(あなし)」なので、何かしら鉱工業に従事した集団がいた形跡がうかがえる。
この時代から、土木工事が増え、前方後円墳が出現し、その後、南部九州から東北南部にかけて一気に伝播していったらしい。
前方後円墳を調べていたら、その大量の盛り土は一体どこから運んで来たのか?という謎について、なるほど!と、得心がいく説を見つけた。

奈良盆地(大和平野)の、干拓や灌漑事業の残土ではないかというのだ!
目からウロコとはこのこと。
この辺り一帯が、かつて大和川からの水をたたえた巨大な湖だったとすれば、ここに干拓や灌漑などの土木工事をほどこせば、広大で肥沃な水田に作り変えることができるじゃないか!
その結果出たであろう大量の残土を、山に返すとしたら、それもまたひと苦労だ。
それよりも、工事を行った近くに残土を盛って、この大事業に貢献したリーダーとその親族たちを記念する墳墓の用途に使う方がよっぽど効率的だ。
どんなに強力な権力があろうと、大規模な墳墓を造り上げるための民の労力と時間を掌握するには、相当な無理がかかるはず。記紀に記されるほどの大反乱があったとしてもおかしくはない。
けれど、そんな記述は一切なく、大規模な墳墓造りが日本全国あちこちで行われたのはなぜか?と問えば、それは、民衆にとってもありがたく、合理的で、納得できる仕事だったからに違いない。

景行天皇といえば、息子のヤマトタケルを身辺に置くことを恐れ、九州や関東に遠征に行かせて遠のけた「冷たい父親」という印象を持っていた。
けれど、よくよく調べてみたら、ヤマトタケルの死を深く嘆き悲しみ、彼を弔うために、伊勢から東海に入り上総の国まで、彼の足跡をたどる巡幸を続けたと知って、胸が熱くなった。
そして晩年は、近江の国に入り、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)という宮殿を作って、3年住んだ後に崩御されたらしい。

志賀高穴穂宮の写真志賀高穴穂宮(出典:陵墓探訪記)

「穴」っていう字がまた登場したけれど、「志賀高穴穂宮」ってどこにあるんだろう?
Googleマップで検索したらすぐに出てきた。
実際に行ったことはないけれど、おそらく高台から琵琶湖が見渡せる位置にありそうだ。
奈良盆地に巨大な湖があったことを想像すると、纏向日代宮から眺めたのと同じような景色が見えたのかも知れない。
、、、と、その「志賀高穴穂宮」の現在地名を見て目が丸くなった。
そこには、「滋賀県大津市穴太1丁目」とある。
「穴太(あのう)」といえば、「穴太衆(あのうしゅう)」、土木、特に石垣作りのプロフェッショナル、そして戦国時代の工兵集団だ!

穴太衆積み石垣の写真穴太衆積み石垣(出典:滋賀県)

なぜ滋賀県穴太の地に土木技師集団が生まれたのかについて、情報を探したところ、天智天皇が築いた近江大津宮(おうみおおつのみや)を元祖として説明しているものを見つけた。
けれど、その300年以上も前に、土木工事のプロ集団を率いた景行天皇がそこに住まわれていたことにも、少しは関連があるんじゃないかな。

そうこうしているうちにお昼どきになってきた。
ちょうどこのあたりは、弁当を広げるにはうってつけの場所が多く、すでにどこもかしこも、談笑しながらおむすびやサンドイッチを頬張る人たちに占拠されてしまった。
と、残念がる前に、そもそも僕は弁当を持参していないという失態。
せめて、あの無人販売かミカン園で、何かしら食べ物を調達しておくべきだった、、、。
どこかに無人販売が現れないかと探したけれど、探す時に限って見つからない、そして、その状況がさらにお腹を空かせる、というマーフィーの法則。 もうこうなったら忘れるしかない。

大和三山の写真景行天皇陵の脇から大和三山が見える

ちょうど気をそらせるのにうってつけのものが見えてきた。崇神天皇陵(すじんてんのうりょう)だ。
いやはや、こちらもみごとな前方後円墳!
フルコースのランチ・ディナーに、メインディッシュが次から次へと何皿も出てくるようなものだ。(もう満腹です。)
山の辺の道、ミシュラン三つ星合格、まちがいなし。
気持ちの上では満腹にした。

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