【第20回】みちびと紀行 ~柳生街道を往く(柳生の仏さま) みちびと紀行 【第20回】
夜支布山口神社(やぎゅうやまぐちじんじゃ)を過ぎて、山の斜面を下っていくと、歓声が聞こえてきた。
やがて、ゲートボール会場が見えてきて、声の主たちは、ゲームに盛り上がっている。
一刀石のコスプレ剣士以来、人を見たのはこれがはじめてだ。
それまでが静かな道だったので、久しぶりのにぎやかな空気が、なんとも懐かしく感じる。
おじいさん、おばあさんたちの笑顔や笑い声は、何故これほどまで心を温かくさせるのだろう。
しばらくプレーを遠くで眺めてたら、そのうちの一人が僕に気づいた。
僕は軽くお辞儀をして、向こうにいたおばあさんも、ちょこんと会釈する。
ただそれだけのやりとりだったけれど、心に日差しが届いたようだった。
そこから先、柳生街道は、里を離れ、山道になって続いていた。
ここらへんも、イノシシの被害が大きいのだろう。
街道沿いには、イノシシの「掘り返し」と思しき跡が何箇所もあったし、ところどころ開けた場所にある小さな田畑は、全て獣害対策の電気柵で取り囲まれていた。
どう見ても、今は人間の側が劣勢に立たされている。
柳生街道は、本当にいろんな表情を見せてくれる。
鬱蒼とした林をくぐり抜けたり、山道を登りきったと思えば、ひっそりと田畑の一画が視界に現れたり、穴のような場所をくぐり抜けたり、、、。
子どもの頃に戻って探検しているような、懐かしい気分になる。
「近鉄てくてくマップ」の説明にあるように、川のせせらぎの音が聞こえてきたら山道が終わり、整備された国道369号に合流した。
すぐそこに、趣のある山門があって、そばの駐車場にも車がびっしり停まっている。
門から中を覗いてみると、紅葉の美しい庭園に観光客が集まっていた。
忍辱山円成寺(にんにくせんえんじょうじ)に着いたのだ。
円成寺がいつ創建されたのかについては諸説あるようで、天平勝宝8年(756年)とも、平安時代の万寿3年(1026年)とも言われているらしい。
いずれにせよ、見るからに風格があって、僕が言うのもおこがましいのだけれど、何か歴史を乗り越えてきたような「ただものではないオーラ」が漂っている。
ところで、このお寺の山号、なぜ「忍辱山(にんにくせん)」というのだろう。
「辱め(はずかしめ)を忍ぶ」とは、山号としては珍しい。
気になり出して調べてみると、仏教の教えに由来していた。
お釈迦様が、悟りに至る道筋として示した六つの修行の道を、「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と言うようで、そのうちの一つが忍辱(にんにく)というらしい。
忍辱とは、「自分に侮辱や損害を与え、人を裏切るような相手に対しても、怒りや恨みの心を抱かずに、逆に慈悲心から、相手を救ってあげようという気持ちが起きるようにすること」だとか、、、。
いやいや、さすがにそれは難しいでしょう!!
恐れ多くも、お釈迦様にツッコミを入れたくなった。
僕はお坊さんにはなれない。
ちなみに、食べ物のニンニクも、この「忍辱」が由来らしい。
今後ニンニクを見るたびに、我が身の至らなさを振り返ることになるのだろう。
拝観料を払って中に入ると、こじんまりとした敷地の中に、本堂をはじめとした趣のある建物がところ狭しと並んでいる。
本堂に入ると、人間と同じくらいの大きさの阿弥陀如来が、僕を静かに見つめていた。
僕はこの阿弥陀様がなぜか気に入ってしまって、しばらく時を忘れて本堂に座っていた。
「如来」というのは悟りを開いて「無の境地」という最終段階にいるので、如来像は基本的に無表情ということらしい。
でも、よくよくお顔を拝見すると、その中に静かな笑みや、悲しみさえもが隠されているようで、なんとも奥深い。
人生の年月を重ねた末に、あどけない子供に戻ったお年寄りのようだった。
このお寺には、他にも如来像があって、そちらは「相應殿(そうおうでん)」という別の建物のガラスケースの中に大切に安置されていた。
運慶が作った国宝の大日如来像だ。
運慶の作品については、ウィキペディアを見ると、
- 運慶作と確定している作品
- 運慶作と強く推定されている作品
- 運慶作とする説がある作品
こちらの大日如来像は、運慶作と確定している最も古いもので、彼が20歳ごろの作品らしい。
ところどころ剥がれている金箔の下に、つやつやした焦茶色の肌が若々しく見える。
如来像の特徴で無表情なのだけれど、表情というのはなんとも不思議なもので、今の表情に至る背後にある歴史を彷彿とさせる。
こちらは、一所懸命に律儀に修行した末に悟りに至った青年のようで、ガラスケースの中にいるせいか、あるいは国宝という「タイトル」を担ってしまったせいか、ちょっと窮屈そうだった。
忍辱、「辱め(はずかしめ)を忍ぶ」という修行の末に至る表情とは、こういうものだろうか、はたまた、先の阿弥陀様のような表情だろうか、、、。
時刻を見ると、すでに午後3時を過ぎている。
ゴールの近鉄奈良駅までは、あと12km。
体力的には自信があるけれど、すでに日が傾き出していて、それだけが気がかりだ。
ここからバスに乗って帰ることもできるけれど、、、。
ええい!行ってしまおう!
冒険心に身を任せて、再び石畳の柳生街道を歩き出した。
そういえばお腹が空いていたんだっけ、と思い出したけれど、まあいいか。
仏様の表情に触れて、すっかりおおらかな気分になっていた。