【第19回】みちびと紀行 ~柳生街道を往く(受け継いでいく物語) みちびと紀行 【第19回】
正木坂道場から、柳生霊園の方向に道を辿ると、森の中に入った。
高い木立のせいで、陽の光もうっすらとしか地上に届かない。
やがて道の先に鳥居が見えてきた。
そこから先は、天乃石立神社(あまのいわたてじんじゃ)の聖域だ。
一礼して進んでいくと、巨石がごろごろしている。
社伝によれば、手力男命(たぢからおのみこと)が、天照大神が閉じこもっていた天岩戸(あめのいわと)をこじ開けた時に、その扉となっていた石がここまで飛んできて砕けたとされている。
天岩戸については、「ここがその岩戸だった」とか「この巨石が塞いでいた岩戸のかけらだ」とか、伝説の地が全国的にあって、ここもその一つだ。
今となっては、情報も手に入り、交通も発達したので、「ああ、全国的にある話の一つだな」と思う。
けれど、江戸時代以前は、村の境界ですらなかなか越えていくこともなかっただろうから、この言い伝えは結構信じられていたのだろう。
「いえいえ、こういう伝説はここだけでなく全国的にありますよ」と思うことが、なんとも的外れで無粋に思えてくる。
それぞれの土地で、それぞれに神秘的だと感じたものに対して畏敬の念をもち、子孫に伝えていく。
その連鎖する物語こそが、それぞれの一族や地域社会をまとめあげてきたのだから。
ここは、柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさいむねとし)の修行の場だったと言われている。
彼は、師匠である上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)から、「無刀取り」というアイデアを実現させること、という宿題をもらった。
そして、彼はこの聖域にこもって修行を続け、ついに無刀取りを完成させた。
この奥には、一刀石(いっとうせき)と呼ばれる巨石があって、石舟斎が修行中に天狗を斬り、翌朝見てみると岩だった、という伝説があるらしい。
どんなものかと思って行ってみると、先客がいた。
縦一直線に割れ目が入った巨石の前で、何やら女性が派手な剣士風の服をまとって、杵で餅をつくかのように、何度も刀を振り下ろしている。
僕はといえば、一刀石のことがすっかり頭から離れてしまい、何の撮影なんだろうか?彼女は女優なのか?と、そればかりに気を取られてしまった。
近づくのを遠慮して離れて様子を見ていたら、一刀石の裏側から撮影していた男性が僕の姿に気づき、「どうぞぉー!」と大声で、僕に一刀石の写真を撮るように促した。
剣士風のメイクをした女性に、「何かの映画の撮影ですか?」と真面目に聞いてみると、「いえ、まあ、その、、、」と話しにくそうにしている。
その間にも、一刀石の裏にいるカメラマンは、一生懸命に体を隠して僕の写真撮影を待っていたので、さっさと一刀石の写真を撮って、その場を去った。
厳かな雰囲気はいっきに吹き飛ばされたけれど、まあ、これはこれでいいかな。
それにしても、あれは何だったのだろう、、、?
後日、街角のポスターで、彼女と同じ、派手な市松模様の服を着たアニメキャラを見かけ、合点がいった。
あれは、話題沸騰のアニメ「鬼滅の刃」のワンシーンだったのだ、、、。
ふと時間を確認すると、すでに正午近くになっている。
街道のスタート地点で、かなりゆったりと時間を過ごしてしまった。
ここから先、奈良市街まで、あと20kmほどもある。
ちょっと急ぎ足で、柳生街道を進んでいった。
「本当にここでいいのかな?」と、農家の畑に向かうかと思われるような細い道を進んでいくと、柳生街道は山道になっていった。
しばらくいくと、「疱瘡(ほうそう)地蔵」と呼ばれる、高さ3mほどの岩に刻んだ石仏があった。
元応元年(1319年)、後醍醐天皇が即位した頃に作られたものだ。
この疱瘡地蔵もそうだし、先に訪れた宗冬が作った八坂神社も、疫病除けの神様、牛頭天王を祀る神社なので、この里は何度か深刻な疫病に見舞われたのだろう。
疫病が当たり前にあった時代から時が経ち、今では疱瘡は克服できているので、いつかはコロナにもそういう時が来るのだろう。いや、すぐに来て欲しい。
そう願いつつ、このお地蔵様に一礼した。
その先はずっと、杉木立の中を縫うように山道が続いていた。
勾配はそれほどきつくなく、歩きやすい。
こういうところで、編笠をかぶった柳生の剣豪が、忍者に襲撃されるような場面が、何かの映画にあったような気がする。
20分ほど歩くと、視界がひらけて、里の田園風景になった。
こういう、人の手が入った箱庭のような景色を見ると、心がなごむ。
すると突然、空腹感が襲ってきた。
今回の歩き旅は、今思い起こすと反省点がちらほらあったのだけれど、その第一の失敗は、食べ物を持参していなかったということだ。
どこかで食べ物が手に入らないかと探したけれど、あたりに店らしきものはない。
美味そうに熟れた柿の実が目に入って、いっそう腹が減った。
まさか勝手に取るわけにもいかないので、誰か通ったら、「美味しそうな柿ですね」と話を切り出そうかと思ったけれど、人影が見えない。
その場にいても恨めしさがつのるので、「武士は食わねど高楊枝じゃ」と、妄執を振り払うかのように、その場を去った。
せめて風が吹いて、柿が僕の手の中に落ちてくれたらよかった。
柳生街道は、次々に表情を変えながら続いていて、飽きることがない。
民家の間を、丘の上を、林の中を、曲線を縫うように進んでいくと、立派な社殿の前に来た。
夜支布山口神社(やぎゅうやまぐちじんじゃ)だ。
大柳生集落の氏神様として、既に平安時代の延喜式に記されていたというから、古くて由緒ある神社に違いない。
案内を見ると、夏に行われる「柳生太鼓踊り」が、奈良県指定の無形文化財になっているらしい。
どんな踊りかとYouTubeで検索したら、その踊りの動画が出てきた。
けれど、冒頭で唖然とすることになった。
そこには、このような説明があったからだ。
「大柳生町で行われている太鼓踊りは、江戸時代から400年続いてきた伝統行事です。
少子化で、若者不足から、平成24年8月18日を最後に休止することになりました。
この映像は、最後の太鼓踊りの模様です」と。
https://www.youtube.com/watch?v=DCYkX1-G2V8&feature=emb_logo
雨が降りしきる中を、集まった若者たちが、独特の拍子と振り付けで、緊張した面持ちで太鼓を叩いている姿を見ていると、胸にじんと来る。
こうして、地域の「物語」がまたひとつ消えていくのかと、感傷的な気分になっていたら、つられて出てきた別の動画を見て、しだいに心が晴れてきた。
なんと、この太鼓踊りを復活させようと、地元の中学生が頑張って練習しているというニュース動画だったのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=eDKNwxeXAXc
今あるものを伝えていくことでさえ大変なことなのに、こうして一度消えてしまったものを復活させることは、尚のこと難しいはず。
それでも、こうして一度消えかかった火を再び起こそうと、一生懸命になっている人びとの姿を見ると、熱いものが込み上げてくる。
(すっかりハマってしまった)「鬼滅の刃」では、主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)が父から受け継いだ「ヒノカミ神楽」の舞が、物語の重要なカギになっている。
それだけでなく、様々な場面で、「タテ糸の絆」として過去から現在に、先祖から子孫に、師匠から弟子にと、代々受け継がれてきた技や信念、そして絆こそが、鬼たちを滅殺していく力になっているところが特徴的だ。
おそらく海外の作品にはあまりない側面だろう。
そして、そこが海外での大ヒットの理由の一つかもしれない。
この柳生街道が、そういった「タテ糸」の物語を伝えていく道として、ずっと続いていて欲しいと、心から願った。