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【第12回】みちびと紀行 ~東海道を往く(六郷の渡し~神奈川宿) みちびと紀行 【第12回】

多摩川を渡って神奈川県へ

これから多摩川を渡る写真これから多摩川を渡る

「こんなに川幅が広かったんだっけ?」
いま僕は、多摩川からの涼風を感じながら、橋を渡っている。
この六郷橋の長さが443.7m。
電車の窓から見る多摩川は、長いあくびをひとつする時間で過ぎてしまうけれど、こうやって歩いて渡ると、なかなか大きい川であることが実感できる。
全国にある109の一級河川のうち、多摩川は25番目に長い川らしい。
慶長5年(1600年)、徳川家康は、ここに初めて橋を架けた。
けれど、88年後の貞享5年(1688年) に洪水で橋が流されてしまい、以来、明治7年(1874年)に橋が架けられるまでの186年間、この川の横断は渡し船が担っていた。

八丁綴の無縁仏の写真八丁綴の無縁仏、災害で亡くなった身元不明の人々が宿場のはずれに葬られている

その後も、橋は幾度も洪水で流され、そのたびに新しい橋が架けられてきた。
昨年(2019年) の10月の台風の時、ここらへんの川幅が堤防まで広がって、河川敷のグランドも水面下に沈んだ映像を見たことがある。
そういえば、かすかに記憶に残る「岸辺のアルバム」というテレビドラマも、この多摩川の洪水の話じゃなかったかな。
都会に近いせいで、自然の脅威に無頓着になってしまいがちだけれど、人生と同じように、一瞬で平穏な日常が流されてしまうこともある。
そんなことを考えていたら、「岸辺のアルバム」で流れていたジャニス・イアンの曲を思い出して、口笛を吹きながら川を渡った。

長十郎梨の写真長十郎梨は、ここから全国に広がった

神奈川県に入った。
多摩川は、東京都と神奈川県を隔てる境界だけれど、武蔵国と相模国の境になっていたわけではない。
と、いうことで、「武蔵小杉」は川の西側、神奈川県にある。
相模国との国境はまだまだ西の先だ。

六郷橋のたもとに、「長十郎梨のふるさと」の看板があった。
明治中頃、このあたりは一面の梨畑だったらしく、その中で病害に強くて甘い品種が生まれた。
発見者は当麻辰次郎という人で、その人の屋号をとって「長十郎」と命名され、この地から全国に広がったらしい。
僕が子供のころ、梨と言えば「長十郎」か「二十世紀」だった。
冷やしたみずみずしい梨は上等なおやつで、僕はとりわけ、ガリガリと硬い「長十郎」の果肉をかじるのが好きだった。
「そう言えば、最近見かけないな。」
そう思って調べてみると、ちょっと古いネットの情報では、「長十郎」は「幸水」に取って代わられ、2003年当時で、すでに梨全体の栽培面積の2%程度しか、「長十郎」は栽培されていないとのことだった。
もうすでに「まぼろしの梨」になってしまっているのか。
もうじき、この看板の意味もわからない人たちによって撤去されてしまうのかな。
そう思って写真におさめた。

川崎のまちづくりに貢献した人々

東海道の写真川崎のビジネス街を、東海道がつらぬく

六郷橋を渡ってほどなく川崎宿に着いた。
ここは、東海道第二番目の宿場町。
けれど、東海道が整備された時点では、ここは正式な宿場町にはなっていなかった。
その当時、品川宿を出ると、次の宿場は神奈川宿となっていて、その間約20km弱。
宿場間の伝馬(駅伝輸送)を担うのは宿場近隣の農民で、長い道のりでは彼らの負担が重かったため、東海道が成立して22年後の元和9年 (1623年)、この中間地点の川崎に宿場が設けられた。
品川と神奈川の農民は、負担が減ってほっとしただろうけれど、川崎の農民にとっては、いきなり伝馬の負担が課せられて、たまったものではなかっただろう。
おまけに、川崎宿の経営はしばらく思わしくはなく困窮が続き、とうとう川崎宿の廃止を幕府に願い出る事態にも直面したらしい。
そこに登場する救世主が、問屋と名主と本陣を同時に勤めていた田中休愚という人物。
意を決して幕府に願い出て、交渉の末に、幕府からの救済金と「六郷の渡船による権益を川崎宿のものとする」という取り決めを獲得し、以来、川崎宿の経営は好転したとのこと。
この人物、のちに大岡越前守忠相に取り立てられて活躍したというから、相当なやり手だったに違いない。
この人がいなければ、政令都市にまでなった今の繁栄した川崎はなかったかもしれない。

市場一里塚の写真江戸から5番目の、市場一里塚

けれども、ここで話は終わらない。
この田中家も、何代もくだった幕末には、本陣とは名ばかりで、とんでもなく荒廃してしまったらしい。
安政4年 (1857年)に、タウンゼント・ハリスが、田中本陣に泊まる予定にしていたものの、着いてみたら、あまりの荒廃ぶりに泊まるのを拒否し、近くの万年屋という旅館兼茶屋に宿泊したという逸話が残っている。
この万年屋、厄年の人たちの川崎大師への参詣に当て込んで、「奈良茶飯」という名物の炊き込みご飯を考案した。
店は大繁盛し、その勢いで本陣に客が寄り付かないようになってしまったらしい。
今でも川崎大師といえば、初詣の参拝者数が全国で3位、厄除けでも参詣者が絶えない。
川崎という街の繁栄に、この川崎大師の貢献は無視できないし、その川崎大師への参詣を江戸の人々のレジャーにまで発展させた貢献者リストの筆頭は、この万年屋にほかならない。
実は、「お江戸日本橋」の唄は5番まであって、その3番目に万年屋が登場する。

六郷渡れば川崎の 万年屋
鶴と亀との よね饅頭
コチャ 神奈川急いで 程ヶ谷へ ♪♪

おっと、僕も旅を急がねばならない。
なにせ、江戸時代の旅人が1泊目の宿をとった今日のゴールの戸塚宿は、ここからまだ23kmも先にある。
まだ8:30amとはいうものの、日が落ちる前にはたどり着かねば。

生麦事件

海が近いぞの写真海が近いぞ

川崎からは、ぐんぐんと早足で街道を西に進んだ。
ぼやぼやしていると、9月の日差しが容赦なく照りつける午後になってしまう。
涼しい午前のうちに、できるだけ距離を稼ぎたい。

川崎のビジネス街を過ぎると、わりと車通りが少なくなってきた。
旧東海道の雰囲気が増してきて、街道の歴史を残す神社・仏閣、石碑、道祖神、一里塚を、よく見かけるようになった。
急ぎ足で歩いて、喉も乾いてきた頃に、住宅街の民家の塀に、「生麦事件発生現場」と書かれたプレート記念碑を見つけた。

ここで事件は起こったの写真ここで事件は起こった

生麦事件とは、ざっくり言うと、江戸時代の最期に、血の気が多くてプライドの高い薩摩藩の大名行列に、四人の空気の読めないイギリス人観光客が、馬に乗ったまま行列の中に割り込んでしまい、結果、薩摩藩士に斬りつけられ、一人は死亡、二人は重傷、残る一人はほぼ無傷で横浜の居留地に逃げたという事件。
これがもとで薩英戦争が起こり、その薩英戦争がきっかけになって、薩摩藩とイギリスが急速に結びつき、やがてイギリスが倒幕のための大いなる後ろ盾になるという流れだ。
「風が吹けば桶屋が儲かる」的に解釈すれば、この四人の呑気なイギリス人が、江戸時代を終わらせたのかもしれない。
よくよく調べると、この時の薩摩藩の行列は、ただの大名行列ではなく、島津久光が幕政改革を志して、示威行動の意味合いで700人の軍勢を引き連れて江戸に入り、その帰りの400人の「軍勢」だったらしいから、相当に血気だっていたに違いない。
そこに馬に乗って現れた四人のイギリス人観光客というのは、一体どういうメンタリティだったのだろう。
僕なりの解釈は、次のことに尽きる。
「それほどまでに、日本の社会は治安がよかったし、日本人は無害に見えた」と。

日本が治安が悪いと思われていれば、民間人四人だけで観光などしないだろう。
しかも、その四人は、商社マンとその妻だったから、日本についての見識が皆無だったようには思えない。
「日本人は話せばわかってくれる」とでも思っていただろうか。
いや、彼らの中に日本語を話せる者はなく、通訳も同伴していないから、「話さなくてもわかる」あるいは、「わからなくてもよい、無害なのだから」と思っていたのかもしれない。
「心地良い距離感」「間合い」ということが頭に浮かんだ。
「人は、無害に思える人にはどんどん甘えて図々しくなれるし、時には過度に要求する」
薩摩藩士にとっては、このイギリス人たちに、我慢ならないほどの「間合い」にずかずかと入って来られたように思えただろう。
そして、怒りが爆発した・・・。
日本人は、「和を以って貴しとなす」民族である一方、「心地良い距離感」を大事にする民族で、しかも「忍耐を美徳とする」風もあるからわかりにくい。
外国人にとっては単純に理解できるものではないし、まずはこの「間合い」の理解が必要だろう。
でないと、この手の衝突や軋轢は、今後も絶えないだろうな。

キリンビール工場の写真キリンが僕を誘惑している

そんなことを思っていたら、「生麦」という言葉の連想で、生ビールを飲みたい欲求にかられてきた。
すると、追い討ちをかけるように、すぐそこにキリンビールの工場があるではないか!
搾りたての生ビールが飲みたい!
けれど、この炎天下で生ビールをがぶ飲みして行き倒れになったら、それこそ事件になりかねないぞ。
誘惑を振り切るように足早に過ぎ去った。

西洋野菜畑だった写真ここは一面、西洋野菜畑だった

ほどなくして、子安という地名の場所に入ると、新たな「敵」が現れた。
なんと、そこには「トマトケチャップ発祥の地」の碑があるではないか!
湯気を立てているふわふわのオムライスにトマトケチャップがかかっている様子を想像して、僕のお腹は一挙に音を立てるようになった。
考えてみれば、午前4時に日本橋を出発して以来、まだ何も食べてはいない。
時刻は10:24am、まだランチには早い時刻だというのに。

この子安には、西洋野菜の栽培と、トマトケチャップの製造を、最初にはじめた農村があったということだ。
安政6年(1859年) に横浜が開港して、西洋人が増えてくると、キャベツ、トマト、セロリ、レタスなどの西洋野菜の需要が増えて、1862年にこの子安で西洋野菜の栽培が始まり、その後も急速に広まっていったらしい。
「限られた土地にどの作物を栽培するか」ということは、農業にとっては、株の先読みと同じくらい大事なことだ。
この1862年は、桜田門外の変の2年後、攘夷を迫る孝明天皇の妹君、皇女和宮が徳川家に降嫁した翌年にあたり、京都で寺田屋事件があった年、そして、生麦事件があった年だ。
国内政治的には、まだまだ鎖国や攘夷の路線が力をもっていた。
 けれども、世間的には、これからは海外に向けて国が開かれ、西洋人も増えると見抜いていたようだ。

笠䅣(かさのぎ)稲荷神社の写真笠䅣(かさのぎ)稲荷神社、ここでおにぎりを食べた

いろいろ食べ物のことを考えていたら、深刻なまでにお腹が鳴り出して、定食屋が開くのを待っている事態ではなくなった。
距離も稼ぎたいので、食事時間の短縮のために、コンビニでおにぎりと飲み物を買って、ちょうどおあつらえむきに木陰を作ってくれている神社の中で、おにぎりを頬張った。
神奈川宿は、もう目と鼻の先だ。
「今日はきっと戸塚宿までたどり着ける。」
16年前の僕は、もうこの辺りで足の動きがおかしくなってきて、横浜に一泊目の宿をとったのだけれど、今の僕には、たどり着ける確信がある。
足が全く痛くない。

稲と食物の神様であるお稲荷様にごあいさつをして、僕は再び歩き出した。
江戸時代の旅人に追いつくために。
そして、16年前の僕を越えるために・・・。

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