【第9回】北国街道を往く ~シーズン1を終えて みちびと紀行 【第9回】
みちびと紀行、第1回から第8回まで連載した「北国街道を往く」は、2020年の夏の盛り、8月3日から8月6日までの、3泊4日の歩き旅だった。
東京駅から8:44発の北陸新幹線に乗れば、軽井沢で乗り換えて、10:14には信濃追分駅に着く。
今回は、追分宿から戸倉宿まで、全歩行距離は51.7km。
小諸宿には2泊し、温泉やグルメにもゆったりと時間をかけ、その後、上田宿に1泊した。
1日の歩行距離と、昼食や寄り道も含めた所要時間は、以下の通りとなる。
- 追分宿から小諸宿まで、13.7km、所要4時間
- 小諸宿から海野宿を経て上田宿まで、19.7km、所要6時間
- 上田宿から坂木宿を経て戸倉宿まで、18.3km、所要8時間
今回歩いた北国街道の区間は、千曲川のエリアだ。
千曲川は、甲斐、武蔵、信濃の三国の国境に当たる甲武信ヶ岳を源として、八ヶ岳と関東山地西部をすり抜け佐久盆地(佐久平)に出た後、浅間山のすそ野をえぐりこんで蛇行し、上田盆地に到る。
そして、さらに岩山を削り取るように北上し、やがて犀川を合わせて川幅を広げ、長野盆地(善光寺平)に到る。
そしてここから先、越後に入ると、日本一の長流、信濃川として、日本海に注ぐ。
佐久盆地、上田盆地、長野盆地の大半は、日本有数の雨が少ない地域で、夏の雨量も、冬の降雪量も少ない。
小諸のジオヒルズ・ワイナリーでも教わった通り、ぶどう栽培やワイン造りには適した地域だ。
そして、ウォーキングにもうってつけの地域と言えるだろう。
「長野は教育県」と昔からよく聞いていたけれど、今回、北国街道を歩いてみて、初めて納得した。
街道沿いには筆塚だったり、私塾の跡だったり、数学が盛んだったことを示す和算問題の跡だったりと、教育が盛んだったことを示すものが、とても多い。
調べてみると、信州の寺子屋・私塾は6,136もあったことが判明していて、その数は全国一で、しかも、寺子屋師匠の過半数は、江戸当時の知識階級だった武士や僧侶ではなく、農民だったということだ。
江戸時代には、各地の日本人の特徴を端的に記した、「人国記」「新人国記」という書物がある。
「新人国記」の信濃国の項を読むと、信濃人の気質についてこう書かれていた。
「当国の風俗は、武士の風、天下一なり。百姓・町人の風儀も、健やかなること他国の及ぶ事にあらず。その生得義理強くして、臆する事なし。仮領の雑談にも、弱みなる事を言はず。若し柔弱にして臆したる事、少しある者は、人これを嫌ひて交はらぬ風なり。尤も才覚もある国なり。但し頑なに野鄙なる事は有りとぞ。」
確かに信濃人らしい!と、実際に北国街道を歩いてみて納得した。
旧北国街道のほとんどは、趣のある、落ち着いたどこか懐かしい道だ。
だが、時々は、車通りの激しい国道と合流することもあった。
特に、中山道との分岐点、追分の「分去れ(わかされ)」から少し先に行った「追分原」と呼ばれる地点では、行き来が激しい国道の脇の歩道を歩くことがあって、気分が一旦萎えてしまう。
ただ、それはそれ。
楽しい道もあれば、しんどい道もある。
旧北国街道を示す道標は、わりと整備されていて、そんなに迷うことはない。
現代式の道標がなくても、お地蔵さんや、大きく枝を広げる老木たちが、旧街道の目印になっている。
トイレは、東海道や中山道ほどではないけれど、公園やコンビニ、ガソリンスタンドがちらほらあって、困ることはない。
今回は、幸いにも雨には出くわさず、その代わり、日差しが照り付けていて、熱中症には気をつける必要があった。
帽子、サングラス、日焼け止めは必需品だ。
水分は、街道沿いのあちこちに自動販売機があるので、簡単に手に入れることができる。
季節が春や秋であれば、もっと快適に歩くことができるだろう。
ただし、真夏の生ビールの美味さを代償にしなければならないのだけれど。
今回、最も気を遣ったのが、「コロナ対策」だ。
結論から言うと、密集、密閉、密接の「三密」という状況は皆無だった。
移動手段は「歩行」で、人とすれ違うことは滅多になく、山からの爽やかな風に吹かれながら、ひとり黙々と街道を歩いた。
街道歩き旅は、三密からは最もかけ離れた旅のカタチと言えるだろう。
ただし、人とすれ違う時には着用できるように、マスクは常にポケットに入れていた。
泊まった旅館、ホテルも、それぞれ配膳方法や館内の移動方法に相当な気配りがなされ、感染症対策が整っていた。
歩く旅は「線の旅」だ。
辿ること、移動過程そのものが旅の醍醐味となる。
行程も、自分自身の身体に問いかけながら、コースや時間配分を決めることになる。
気ままな旅だ。
今回、旅を終えた地点、戸倉宿から北に、北国街道はまだまだ続いている。
この先、矢代宿を過ぎた後、街道は二又に分かれる。
東側の道は松代道といい、真田家が移った先の松代宿へと向かい、山がちな道を通って、川田宿、福島宿、長沼宿、神代宿を経由して北上する。
西側の道は、またの名を善光寺街道とも呼ばれた道につながり、善光寺平(長野盆地)を、丹波島宿、長野市中心街に当たる善光寺宿、そして新町宿を通って北上していく。
やがて、東西に分かれた北国街道は牟礼宿の手前で合流し、そこから先は日本屈指の豪雪地帯に入っていく。
かつて越後国の国府が置かれた新潟県上越市の高田宿を過ぎれば、残るは春日新田宿。
ここまで来ると、日本海は目の前だ。
北国街道はここで、南北に貫くことをやめ、そこから先は、日本海沿いに東に進んで出雲崎から佐渡へと渡る佐渡路と、西に進んで金沢に達する加賀街道に分かれる。
東は黄金を江戸に運ぶ道、西は加賀百万石を江戸に誘う道ということだ。
実は、北国街道と呼ばれる道はいくつかある。
中山道の関ヶ原宿から分かれ、越前の鯖江、福井を経て加賀の立花に到る北国路も北国街道と呼ばれたし、中山道洗馬宿から分かれ、松本を通り、善光寺に通じる善光寺街道も、別名として北国街道と呼ばれた。
日本には500以上の街道があると言われている。
これらの街道が日本全国津々浦々を、毛細血管のように結び、旅人の往来を助け、文化を繋いでいたのだ。
移動手段が、かつての「歩行」から、車や鉄道に置き換わり、街道の多くは廃れ、街道筋はことごとく寂れてしまったけれど、よく目を凝らしてみれば、それぞれの道には、かつてそこを通った人びとの記憶が残っている。
その記憶を手繰り寄せ、往時を偲びながら歩く。
これもまたひとつの街道歩きの醍醐味だ。
人の好みはそれぞれだけれど、少なくとも街道の起点から歩き始めることを、僕はお勧めする。
人生がしばしば道に例えられる通り、街道を歩くことはその過程を味わうことに醍醐味がある。
歩けば歩くほど、そう思う。
人生が突然青年期から始まるわけではないように、ある観光区間のみを切り取った街道歩きは、かなりもったいない。
「この街道はお勧めです!」というところがあれば、是非教えていただきたい。
その道を歩きながら、人と出会い、そこを歩いたであろう人々の人生を知る。それは、僕自身を知ることにも繋がっている。