【第7回】みちびと紀行~北国街道を往く(上田、坂木) みちびと紀行 【第7回】
上田宿を出立したのは、朝の8時前だった。
宿場町の風情を残している柳町をそぞろ歩く。
足早に過ぎ行くサラリーマンやOLを尻目に、猫たちが優雅に寝そべっている。
しばらくかまっていると、
「あら、どうしたの?怪我しているみたいね。喧嘩でもしたの?」
と、近所に住んでいるらしきご婦人が声をかけてくる。猫に。
「地域猫なのよ。よく慣れているでしょ。」
と、あくまでも猫を見つめながら僕に呟いている。
遠目で見ると、「できるだけ一直線になるよう頑張りました」とでも言いたげな、ゆるゆる、くねくねした道が続いている。
旧街道の面影がして、旅心をかきたてる。
先ほどから、何軒か、家の前に看板を出しているのを見かけた。
「薪ください」だったり、「薪にどうぞ、ご自由に」だったり…。
ここでは、今でも薪をよく使うのかなと思い、調べてみると、上田市では、木質バイオマスの利用を促進しており、薪ストーブの購入に対する補助金もあるようだ。
さらに、不要木材を提供したい人と、引き取りたい人の双方を募集し、上田市が仲立ちしていることも分かった。
森林の整備に役立ち、温暖化を防ぐというエコロジーという観点からも確かに良さそうだし、何より、このような、「薪をどうぞ」「ありがたくいただきます」というコミュニケーションが、薪ストーブのちらちらした炎に連れ添うように、人の心を暖めるのかもしれないな、と思った。
上田城は市街地から少し北に外れたところにあり、途中、北国街道をそれて寄りみちした。
北国街道沿いに、別所温泉がある北向観音へ行く道を示す石碑がある。
この地点は、北向観音への参詣、そしてさらに松本に向かう松本街道の分岐点にあたる。
ここを折れて、ひっそりとした小道を10分ほど歩くと、上田城にたどり着いた。
大きな木々が心地よい木陰をつくり、下を人々が散歩している。
上田城は真田昌幸の時に築城し、鉄壁の守りを果たしたが、関ヶ原以後、煮え湯を飲まされた家康によって、徹底的に取り壊された。
今の城は、真田家の後に、小諸から移ってきた仙石忠政によって再普請されたものが元になって復元された。
前回、仙石忠政にちらりと触れたが、この仙石家もとても興味深い。
彼らも、関ヶ原では、一族が東の徳川、西の豊臣に分かれて戦ったのだ。
父の仙石秀久と、三男の久政(後の忠政)は徳川方につき、西軍方の真田昌幸の上田合戦に参加した。
そして、次兄の秀範は西軍側につき、父から勘当され、廃嫡されてしまった。
この「関ヶ原ショック」を前にして、全国あらゆる場所で、血脈と家系を残すため、捨て身の生き残り策がとられていたのだ。
仙石忠政も名君であったようだ。
小諸城主時代は、父の代に過酷な課役を強いたため、農民が逃げてしまったそうだが、自分の治世になって様々な改革に着手し、農民も領内に戻ってきた。
小諸から上田に移った後も、新田開発や産業の推進に力を注ぎ、兵農分離政策も進めたらしい。
ただ、前の領主、真田信之に対する領民の思いは強固で、今も続いているのは真田愛なのだけれど…。
調べてみると、仙石家は蕎麦に対して多大な貢献をしていたことが分かった。
おそらく、日本の蕎麦は、仙石抜きには語れないと言っても過言ではない。
浅間山麓は古くから蕎麦の産地ではあったけれども、当時の食べ方は、蕎麦がきのような餅状に練ったものだった。
これを、仙石秀久の時に、「蕎麦切り」という現在のような細長い蕎麦にして領民に広めたということだ。
仙石忠政も、蕎麦産業の育成に力を入れ、さらに二代降りて、政明の時に、信州そばは仙石家とともに西日本に展開をすることになる。
幕府の命により、上田藩の仙石氏は、但馬の出石藩に移封され、代わりに出石藩の松平氏が上田に入ってくる。実質的な領地交換だ。
この政明が大の蕎麦好きだったらしく、信州から出石に蕎麦職人を連れて行った。
その結果、全国的に有名な出石蕎麦が誕生することになる。
せめて全国の蕎麦好きは、もっと仙石家を称えても良いだろう。
北国街道に戻り、しばらく辿っていくと、江戸の昔にタイムスリップしたような土蔵のある場所があった。 後で調べてみたら、映画「たそがれ清兵衛」のロケ地のひとつだったらしい。
その先を歩くと、何の木だろうか、切株が祀られている。
小さな立て看板の文字がにじんで、よく見えなかったけれど、1816年に杉の大木が倒れたのを、それ以来、里の人が祀っているようだ。
後で調べてみたら、真田昌幸が北国街道沿いに植えた杉並木のうちの一本らしい。
アニミズムと言われたらそれまでだけれど、動物や植物、果ては道具に到るまで、その現世での役割を終えたものに対して丁重に弔うという行為について、理解し、共感することができて良かった、と思う。
北国街道は、静かな里の風景を貫きながら北上していく。
上田市と別れて、坂城町に入ってきた。
この先しばらく行くと、坂木宿にたどり着く。
「坂木」と「坂城」、字が違うのは、群馬にある中山道の坂本宿と見た目が似ているからという理由で、明治時代に当て字を変えたらしい。
正午も近くなると、だいぶお腹が空いてきた。
「やっぱり信州そばだな…」と思っていたら、ちょうど僕のアンテナに引っかかるお蕎麦屋さんを発見した。
「たつの」というお蕎麦屋さんだ。
お店に入ると、古民家を改装した懐かしい造りで、窓から見える植栽の緑と一緒に、すっかり心が落ち着いた。
愛想の良い女将さんがニコニコと迎え入れてくれて、僕はさっそく信州そばを注文した。
絶品!
この爽やかな喉越しは一体何だろうと思う。
夏の日盛りの中を歩いてきた身には、この清涼感はたまらない。
「仙石家の皆さん、ありがとうございます。こうして、あなた方が始めた蕎麦の技術が鍛錬されて、素晴らしい食文化になっていますよ」と伝えたい。
もうちょっと長居したかったけれど、人気店らしく、お客さんが続々と順番待ちをし出したので、女将さんにお礼を言ってお蕎麦屋さんを後にした。
しばらく歩くと、静かな町に入った。坂木宿だ。
まずは、ふるさと歴史館に寄ってみる。
本陣だった場所に立つ、木造3階建ての和風建築の建物で、資料も充実している。
坂木宿は、北国街道の中で、江戸幕府から最初に宿場の指定を受け、加賀百万石の前田家が毎年数千人の家臣を従えて宿泊する、街道随一の規模を誇る宿場町だったらしい。
この地域を拠点にしていた戦国武将は村上義清で、彼は生涯に2度も武田信玄を撃退するほど強かった。
しかしその後、武田の家臣の真田幸綱に敗れ、越後まで行き、上杉謙信に援軍を求めた。これが川中島の戦いに発展する。
坂城町にはもうひとつ、必見の展示館がある。
刀剣を中心とした展示物で、その名も「鉄の展示館」だ。
北国街道沿いには、昔から刀匠がちらほら住んでいるようで、この坂城町も、人間国宝となった刀匠、宮入行平を世に出した。
この展示館には、故宮入行平刀匠や、その伝統を受け継ぐ宮入一門の作品を中心に、刀剣本体と、日本の刀剣文化、そして匠の技を、分かりやすく展示している。
入館してみると、わりとたくさん入館者がいた。
「刀剣ファンが結構来るんですか?」と、スタッフに尋ねてみる。
「ええ、最近はマンガやアニメの関係で若い方が多いんです」とのこと。
マンガやアニメの訴求力の強さを思い知らされた。
やがてここにも、多くの外国人がやってくるようになるのかもしれない。
僕は刀剣をまじまじと見たことはそれまでなかったのだけれど、実際に目の前のシンプルな一本のカタチを見つめていると、しだいに魅入られてくる。
何と言ったら良いのか、心が、ざわつきと落ち着きとのはざまを、パルスのように行ったり来たりしているような、不思議な感覚になる。
三種の神器の中に刀剣が含まれているのも分かる気がする。
展示の説明も分かりやすくて、刃先の白い帯の形、刃文(はもん)によって、山城伝系、美濃伝系、相州伝系、備前伝系と、各流派の個性が現れることも分かった。
しばらく、刀剣を眺めていたら、ふと一振りの刀剣の横に置かれた一枚の写真に目が行った。
高倉健がそこにいた。
高倉健は刀剣のコレクターで、この坂城町にある宮入一門の鍛刀道場にも、生前何度か足を運んでいたらしい。
その縁で、彼が他界した後、ご遺族が彼のコレクションをこの展示館に寄贈したそうだ。
高倉健と刀剣の関係をインターネットで調べているうちに、彼の人生や哲学が興味深くて、どんどん引き込まれてしまった。
演技ではなく、純粋に、寡黙で、実直で、簡素な人だったようだ。
シンプルな美をまとった抜き身の刀は、まさに彼の分身なのだろう。
この、高倉健が所蔵していた一振りの刀剣と、高倉健の一枚の写真。
カタチは違えども、同じ魂を宿しているように見えた。
2014年11月10日、享年83歳、高倉健は他界する。
密葬が執り行われた後に、高倉プロモーションから送られたFAXにはこう書かれていた。
「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」