【第6回】みちびと紀行~北国街道を往く(上田) みちびと紀行 【第6回】
上田市は六文銭だらけの町だった。
アリーナのゲートに六文銭、マンホールのふたに六文銭、トイレの入り口に六文銭…。
そもそも真田家の家紋なのに、上田市の市章よりも多いじゃないか。
そこまで真田一族は誇らしく、愛すべき一族なのだろう。
僕は真田ファンというわけではないが、上田市の人が、ここまで率直に「真田愛」を表現していることを、微笑ましく思う。
真田一族の足跡を辿るためにここまで来たわけではなかったけれど、こんなに愛されていると、俄然興味がわく。
全国にはご当地それぞれの「郷土の武将」がいるけれど、おそらく、上田市民の真田愛に勝るものはないのではないか、と思う。
仙台の伊達愛か、鹿児島の西郷愛か(これは武将ではないか)、土佐の龍馬愛か(これも武将ではないな)、それくらいしか比較できるものはないんじゃないかな。
僕は静岡の、かつて駿府と呼ばれたところで生まれ育ったけれど、「徳川家康を愛して止まない」という状況になったことは、これまで一度もない。
日本史上屈指の、偉大で誇るべき人物であるとは思う。
ただ、全国の武将の頂点に立ってしまって、「我が郷土の誇り」と言ってしまうのがおこがましく思えるのと、TVドラマなんかの家康の描かれ方が、長生きした古狸のイメージで、ダークサイドが悪目立ちしていることが、徳川愛が湧かない理由だと思う。
そういえば、家康はそもそも静岡出身ではないし…。
「待てよ、真田ファンは全国的にも多いじゃないか」ということに気づく。
気になったので、「戦国武将人気ランキング」なるものを調べてみた。
同様の調査が複数あったけれど、織田信長、伊達政宗、真田信繁(幸村)は不動のベスト3だと見える。
信長が断トツの一位で、伊達と真田が次点でほぼ同数の票を集めている。
ちなみに信長は、「最も嫌いな武将」のトップ・ワンでもある。
では一体、真田のどこがいいのだろう…。
しかし、真田で盛り上がろうとしている上田市民に対して、「真田のどこがいいんですか?」と尋ねるのは、かなりの勇気がいる。
まるで難癖をつけているみたいではないか。
それに、そもそも地元民が郷土のヒーローのことを親しく思うのは、当然と言えば当然だろう。
そこで、真田家をテーマに作品を描いた人たちからヒントをいただくことにした。
単に好きなだけではなく、その人物に惚れこまないと作品は書けないんじゃないかと思うので、参考にするには妥当だと思う。
まずは、NHK大河ドラマ「真田丸」で脚本を書いた三谷幸喜さんだ。
彼は、とあるインタビューで、「歴史の敗者が好き」と言う。
「勝者は一人だけど、敗者はたくさんいます。何かを成し遂げられず、世に出ずに人生を終える人の方が多い。そういう人たちのために、彼らの代表として、敗者の守護神として、真田信繁を描きたいんです」と。
歴史上の敗者に心を寄せる人々が多いのは、日本人の特徴なんじゃないかな、と思う。
敗者の歴史が抹殺されずに、きちんと尊重されて、その人物のことを、良い面も悪い面も併せて、真摯に理解しようとする態度は、間違いなく誇るべきことだろう。
「桜も散りぎわが美しい」というような、滅びの美学を、三谷さんも感じるのかな、と一瞬思った。
ところが、「僕は敗者が好きだとは言いましたけど、滅びの美学みたいなものは苦手で、最後まで希望に満ちた信繁でありたいと思っています。死に花を咲かせるためではなく、最後まで勝つつもりだったと考えています」と三谷さんは語っている。
センチメンタルに死を美化するのではなく、寧ろ、存分まで生命の灯を燃やすことこそが、死や終末を尊重することになるのだろう。
僕もつられて真田信繁のファンになりそうだ。
次は、「真田太平記」を書いた池波正太郎だ。
上田の市街地のど真ん中に、「真田太平記館」はある。
池波正太郎の目には、真田一族はどのように見えていたのだろう。
…と、調べてみて、はっとした。
なんと、池波正太郎が心を寄せたのは、まさかの(いや失礼!)真田信之、お兄ちゃんの方だったのだ。
「真田太平記」もNHKの大河ドラマになったので、改めて調べてみると、「主人公真田信之役、渡瀬恒彦」とあるではないか。
資料によれば、「真田太平記」は、昭和49年(1974年)から『週刊朝日』に連載された歴史小説で、当初は3年ぐらいの予定で完結するはずだったのが、構想が膨らみ、足掛け9年になってようやく完結した。
ただ、連載をはじめる時から、結末は、「真田信之が領民に送られて松代に旅立つ場面」と、これだけは決められていたらしい。
上田の町は真田、仙石、松平と、その主人を変えた。
父や弟、そして長年苦楽を共にした旧臣たちを敵に回して、徳川方につき、真田の家と領地・領民を守り通した信之だったけれど、家康から秀忠の代になると、途端に冷淡に扱われたようだ。
関ヶ原に遅参する原因を作った真田家に対する秀忠の怨みは相当なものだったらしい。
やがて、真田信之は、信濃上田藩6万石を仙石忠政に譲り、13万石に加増の上、信濃松代藩に転封されることになる。
「信幸」と称していた自分の名から、父譲りの「幸」の字を捨てることを甘んじて受入れても、なお徳川方に立った信之。
その信之に代わって上田の領地を引き継いだ仙石忠政は、なんと、西軍についた真田昌幸が立て籠もる上田城攻めに参戦した功により、徳川秀忠の「忠」の字を拝領して、「久政」から「忠政」へと改名していた。
つまり、上田城の主人だった真田昌幸の「幸」の字を、まず息子の「信幸」から消し去り、それに飽き足らず、信之を松代に移して、代わりに徳川秀忠の「忠」の字を持った仙谷忠政を上田城の主人に据えて、まんまと名前の上で上田城を乗っ取るという意趣返しをしたのだ。
なんとも皮肉で、底意地の悪さを感じた。
信之がその転封に対して恨みを抱いていたということをうかがえる資料は残されてはいない。
けれども、信之は松代への転封には不服で、上田を去る際には上田城の植木や燈籠などを全て引き抜いて松代に持ち去ったと、上田では伝わっている。
おそらく、ずっと忍耐を続けた信之に代わって、上田の人々がその怒りを代弁したように僕には思えた。
信之は、なんと、93歳まで生きて天寿を全うする。
辞世の句はこうだ。
「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり」
信之が死去した際は、家臣はもちろんのこと、百姓までもが大いに嘆き、出家するものが続出し、百姓や町人も思い思いに冥福を祈る仏事を行ったとされている。
当の池波正太郎が、真田信之に対してどのような思いを抱いていたのか、語る資料は見つからなかった。
けれども、権謀術数に長けた真田昌幸よりも、ヒーローのように颯爽と生きた真田信繁よりも、理不尽な場面にことごとく出会い、忍耐を続けながらも、領民や故郷を愛し続けた信之は、いっそう親しみが湧く人物だったに違いない。
地方の小勢力に過ぎなかった真田家が、智謀と武勇と忍耐によって、武田、織田、上杉、北条、徳川と、周囲の大勢力の間を渡り歩き、日本史にその存在感を示しつつ、明治以後まで生き延びたという事実。
これはまさに誇るべき史実だ。
僕は、「誇り」というものは、後代に遺すことのできる最も価値のある遺産だと思う。
この土地の人々が、郷土の武将を愛し、六文銭の印を刻み、物語を伝え、誇らしく暮らす。
それは、理不尽な世の中を生きざるをえなかった真田一族への、何よりの供養なのかもしれない。