しのだひろえの歩っとタイム Vol.31
見えるもの・見たいものは変わっていく~東京・銀座裏道さんぽ⑥~
銀座のはしの橋めぐりも今回で最終回。こうして銀座のはしの橋をめぐることで見えてきたこととは。
結局、食い気が勝つ!?
25の橋のうち残るは8つ。有楽橋、新有楽橋、丸の内橋・数寄屋橋・山下橋・新幸橋・土橋・難波橋である。この8つはいずれも現在は東京高速道路の下にあたる。
現代地図
江戸地図
有楽橋と新有楽橋は、その名の通り有楽町が近い。どこかに橋の痕跡はないかと探してふとみあげると信号機に有楽橋とある。この場所は何度も歩いているのに、有楽橋という言葉は記憶の片隅にもない。有楽町と書いてあるとばかり・・「有楽」とつけば「町」に変換してしまっていた私の脳みそよ! 思い込みというやつである。
有楽橋があれば、新有楽橋もあるだろうと歩いて交差点に向かう。しかし銀座西二丁目交差点になっておりその痕跡はなし。丸の内橋もである。
新有楽橋にあたる通りは、まっすぐ進めばJR有楽町駅がある通りだ。人が往来も多くにぎやか。少し寄り道になるが、有楽町駅前には南町奉行所跡の石碑もあるから、ぜひ立ち寄ってほしい。
ここに立ち寄ったら、ついでにとなりの東京交通会館にも足を運ぶことをお勧めする。
有楽橋、新有楽橋、丸の内橋あたりには高知、沖縄、石川県などの地方アンテナショップが並んでいるが、東京交通会館には北海道から九州まで11もの物産館が軒を連ねる。(北海道、秋田、新潟、富山、和歌山、大阪府、兵庫、徳島・香川、大分、長崎平戸市、九州)このあたりにくれば地方のおいしいものが楽しめるなんて最高!結局、食い気である。
数寄屋橋から難波橋までラストスパート
さて、新有楽橋、丸の内橋の次は数寄屋橋である。数寄屋橋といえば大きな交差点であり名の知れた場所である。
数寄屋橋公園には「数寄屋橋の碑」もあり、その歴史を今も知ることができる。これによると「寛永六年(西暦1629年)」江戸城外郭見附として数寄屋橋が初めて架けられた時は幅四間長三間の木橋であった。橋名は幕府の数寄屋橋役人の公宅が門外にあったのに依るという(原文まま)」とある。一間は約1.8メートルだから、幅7.2メートル長さ5.4メートルの橋だったようだ。数字だけでは体感しにくいが、両国にある「江戸東京博物館」に再現された日本橋が幅約8メートルだから、ここの橋を見に行くとその大きさが体感できるだろう。
さて、数寄屋橋を越したら、銀座コリドー街をひたすら歩くのみだ。コリドー街といえば銀座から新橋に続く飲み屋街である。この近辺で働く人にとっては憩いの場所であり有名店やオシャレなお店も多い。私も何度もこの道を歩いてきたが、どうにも山下橋・新幸橋・土橋・難波橋という橋にはまったく見覚えがない。有楽橋と同じくきっと見逃しているに違いないのだが、それでもよく歩いた場所である。橋の痕跡などあっただろうか。
そう思いながら泰明小学校を超えてすぐに山下橋にたどり着いた。江戸時代には山下門があった場所である。
高架下のレストランやバー、すし屋を横目にさらに歩き続ければ・・見つけた!新幸橋!こんなに大きく新幸橋と書かれた石碑があるとは、まったく知らなかった。
残るは土橋と難波橋、いっきにラストスパートである。土橋は東京高速道路入口であるから、車を運転する人にとっては見慣れた言葉だろう。江戸地図をみると難波橋とともに汐留川にかかっていた橋だと分かる。
難波橋まできて、コンプリーーート!よくやった、そう自分をほめてもいいだろう。
ぐるっと銀座のはしの橋めぐりを終えて
約7キロ、2時間で歩いた銀座のはしの橋めぐり。橋をめぐることで歴史やおいしいものを始め銀座という街のさまざまな顔を知った。考えてみると同じ街でも自分が見たいと思う“顔“でしか街を見ていないものだ。銀座の街は何度も歩いたが、今まで橋の痕跡を見つけることなどなかった。仮に銀座の橋や痕跡の存在を知ったとしても、むかしの私であればここまで興味が湧かなかっただろう。時代、経験、人とのかかわり。その人の歳の重ね方や人生観によって、きっと見えるもの・見たいものは変わってくるのかもしれない。街に限らず。
<出典>