1. HOME
  2. みちびと紀行
  3. 【第112回】みちびと紀行~日光街道を往く(日本橋~浅草)

【第112回】みちびと紀行~日光街道を往く(日本橋~浅草) みちびと紀行 【第112回】

「本町通り」の碑、第18代徳川恒孝氏の書の写真「本町通り」の碑、第18代徳川恒孝氏の書

日本橋三越から先、室町三丁目南交差点を右折する。
ここから続く道には、2019年に「本町通り」という愛称がついた。
家康が入府した天正18(1590)年当時、最初に町割りされたのがこのあたり。
そしてこの通りは、江戸城と下町を結ぶ常盤橋から、大伝馬町、馬喰町と続く、江戸一番の目抜き通りだった。
これまで知らずにいたけれど、「これが日光街道なんだな」と思って歩いたら、なるほど、あれこれ見えてくる。

大伝馬町の写真大伝馬町
べったら市の準備の写真べったら市の準備
宝田恵比寿神社の写真宝田恵比寿神社

大伝馬町界隈は、地元の鎮守、宝田恵比寿神社の「べったら市」の準備中だ。
このあたりの町民は、もともと江戸城の拡張によってこちらに転居させられた村人だった。
金銀為替、駅伝、水陸運輸などの役目を家康公から与えられ、町は大いに発展した。
神社に鎮座する恵比寿様も、そのとき家康公から下賜されたのだそうだ。
近代的な街の横丁に、古くからの歴史が息づいている。
愛すべき東京の魅力だ。

江戸町民に時を告げた「時の鐘」、本石町から十思公園に移設された写真江戸町民に時を告げた「時の鐘」、本石町から十思公園に移設された

小伝馬町の「十思公園(じっしこうえん)」に立ち寄る。
ここはもともと牢屋敷があったところで、幕末、吉田松陰が二度にわたって入獄した。
一度目は、下田港に停泊していたペリーの米艦へと乗船したことで、ここへ連行され6ヶ月間収監された件。

参照:【第65回】みちびと紀行

牢屋敷の石垣の写真牢屋敷の石垣

やがて松蔭は、謹慎中の萩で松下村塾をひらき、明治へと時代の橋渡しをする。
自らの魂を志士たちに引き継ぐことが、役割であったかのように。
そして「安政の大獄」で再びここへ連行・収監され、ついに処刑されてしまった。

吉田松陰はここで処刑された写真吉田松陰はここで処刑された

「身はたとひ 武さしの野辺に朽ちぬとも とどめ置かまし 大和魂」

そう刻まれた石碑が、寂しそうにぽつんと、公園の隅に立っていた。

横山町問屋街の写真横山町問屋街

横山町の問屋街を抜けていく。
両側に衣料品の店がずらりと並ぶ、日本最大の現金問屋街だ。
伝馬や馬喰、投宿する旅人が集まるこの町に、小間物(今でいう「旅行グッズ」みたいなものだっただろうか)を扱う店がしだいに増え、この問屋街ができたということだ。
店の集積効果で切磋琢磨されて、商品が改良・洗練され、旅人の携帯道具もどんどん便利になっていったのだろう。

神田川を渡る写真神田川を渡る

問屋街を抜けた先には、神田川が流れている。
浅草橋に着いたのだ。

江戸城外濠(出典:Wikipedia)の写真
江戸城外濠(出典:Wikipedia)

ここは、江戸城をサザエのように渦巻き状に取り囲む堀の外縁だ。
かつて橋のたもとには、江戸防衛の要・三十六門の一つ「浅草門」と、見張りの番兵を置く「浅草見附」があった。
明暦3(1657)年に起こった「明暦の大火」では、ここで2万人を超える死者を出す悲劇があった。
当時、伝馬町牢屋敷の奉行が、火災が収まったら戻ってくることを条件に牢を開き、牢から出た囚人たちがここへ押し寄せた。
ところが、浅草門の番兵にはその経緯が伝わってはおらず、集団脱獄だと勘違いして門を閉ざしてしまった。
後から押し寄せた町民たちは足止めをくらい、迫り来る炎でパニックとなり、圧死、溺死、焼死で屍の山になったということだ。
現代社会でも通用する教訓が、ここにはある。

浅草橋駅前の写真浅草橋駅前

蔵前にある浅草御蔵跡の写真蔵前にある浅草御蔵跡

町名が「蔵前」に変わった。
なぜ蔵前かといえば、ここには「浅草御蔵」という江戸幕府の米蔵があったからだ。
幕府は、全国にある直轄地(天領)からの年貢米や買い上げ米をここに保管し、旗本や御家人への「給料」として、ここから米を供出していた。
隅田川西岸の日光街道沿いに当たるこの場所は、米流通の要所でもあったわけだ。

すごい傾き、大丈夫か?の写真すごい傾き、大丈夫か?
駒形一丁目のバンダイ本社ビル、これ流行っているのか?の写真駒形一丁目のバンダイ本社ビル、これ流行っているのか?
駒形どぜう本店の写真駒形どぜう本店
アサヒビール本社ビルとスカイツリーの写真アサヒビール本社ビルとスカイツリー

浅草が近づき、街がだんだん華やいできた。
古きもの、新しきもの、一緒くたに混じり合って、風景の中に見事に収まっている。
「進行形の風景」だ。
金色のアサヒビール本社を見ると、バブル時代を思い出す。
1989年10月に建てられたもので、「スーパードライ」の大ヒットによって、あんなきらびやかなビルが建ったと聞いた。
なみなみとビールを注いだジョッキの上に泡が浮かんでいるような姿かたちが、「さあ、飲もうぜ!」と呼びかけているようで、なんだか元気が湧いてくる。
今では、その右側にスカイツリーもそびえている。
日本は、まだまだやれる。

「浅草観音示現の地」駒形堂の写真「浅草観音示現の地」駒形堂

浅草寺の駒形堂に着いた。
浅草寺御本尊の聖観音像は、この地で漁師の桧前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟の投げた網によってすくい上げられた。
推古天皇36年(628年)、3月18日早朝のことだ。
仏像のことをよく知らなかった兄弟は、像を水中に投げ返して漁を続けるが、何度やっても網にかかってしまう。
不思議に思った兄弟が、土師真中知(はじのまつち)という土地の長に見てもらったところ、それが聖観世音菩薩だということがわかり、以後この観音様をお祀りすることになったという。
これが浅草寺のはじまりだ。

参照:浅草寺HP

推古帝の時代ということは、聖徳太子が摂政となり、朝廷自ら仏教を崇敬し始めた頃だから、当時は辺鄙な場所だったであろうこの地に、これが聖観音だと理解できる土地の長がいたというのも結構すごい。
いったいこの聖観音像はどこからやってきたのだろう?
好奇心がむくむくと湧き上がってきた。

東京湾の変遷(出典:関東地方整備局)の写真
東京湾の変遷(出典:関東地方整備局)

まずは当時の地形を調べてみる。
浅草には、古代、東京湾最古の港・「石浜湊」があった。
河口からさらに遡上した場所なので、観音像が黒潮に乗って海から流れ着いた可能性は低そうだ。
しかも、古代、海沿いの東海道は後進地域で、文化・文明は東山道を通って伝わったからなおのことだろう。
仏像は、川の流れに乗って上流の地域から運ばれてきたのだ。
当時、隅田川は、旧入間川と旧利根川とが現在の足立区千住曙町付近で合流し、ひとつの川となって東京湾へと注いでいた。
浅草観音は、この二つの川のどちらかから流されてきたのだ。

飯能市の岩井堂観音(出典:ヤマレコHP)の写真飯能市の岩井堂観音(出典:ヤマレコHP)

いろいろ調べていくうちに、埼玉県飯能市にある「岩井堂観音」の伝承で、浅草観音はもともとそこにあったと伝わっていることがわかった。
継体天皇の御代(西暦507~531年)、一人の旅の僧がこの地にやってきて、お堂を建て安置した仏像が今の浅草観音だという。
その後、安閑天皇の御代(西暦531~536年)に起こった災害で、観音像は崖下の入間川の支流・成木川の濁流に呑まれ、この浅草の地まで流されたのだと。
おや? 仏教が伝来したのは、たしか欽明天皇の御代の西暦552年、もっと後ではなかったか。
そのとき百済の聖明王から贈られた「一光三尊阿弥陀如来」は、日本最古の仏像として善光寺に安置されている。

参照:【第102回】みちびと紀行

もしその話が本当であれば、これよりもずっと早く仏教は伝わっていて、浅草観音は善光寺の仏像よりも古いということになる。
・・・いや、待てよ。
朝廷に伝わったことをもって「仏教伝来」とするのは、固定観念というものだろう。
その前に民間レベルで仏教が伝わっていたと考えたらどうだろうか。
むしろ、神道の系譜を持つ皇室に、仏の教えを伝えることが、長いことはばかられたのかもしれない。
そう考えると、この岩井堂観音にやってきた一人の旅の僧の話は、まんざらでもないと思えてきた。
以前鎌倉街道を歩いたときに知ったことだが、古代の毛野(今の群馬県と栃木県)には、5世紀中頃に朝鮮半島からの帰化人が移り住んでいた。

参照:【第77回】みちびと紀行

彼らは、どんな信仰を持っていたのだろう。
この旅の僧は、彼らの子孫だったかも・・・。

そんな推理遊びをよそに、絶対秘仏の観音様は沈黙を貫いたまま。
にぎわい始める浅草の街を、静かに見守っていた。

ページトップ