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【第96回】みちびと紀行~中山道を往く(高崎宿~板鼻宿) みちびと紀行 【第96回】

高崎市郊外へと続く中山道の写真高崎市郊外へと続く中山道

高崎の市街地から離れるにつれ、旧街道の面影が増してきた。
岡醤油醸造の煉瓦造りの煙突が旅情をかき立てる。
そこから右折し、道なりに進むと、烏川のほとりに出た。

明治30年に開業した岡醤油醸造の写真明治30年に開業した岡醤油醸造

烏川を越え、西を目指して進む写真烏川を越え、西を目指して進む

日本橋から高崎まで北上してきた中山道は、大きく左へカーブし、君が代橋を渡って一路西へと向かって行く。
この街道が遥か西の京都まで続いていることを、今さらながら思い出した。
これまで歩いてきた道は、奈良・京都と陸奥国を結んだ「東山道」への接続路、いわば「序章」のようなものだったのだと。

参照:【第44回】みちびと紀行

だるま職人の町に入った写真だるま職人の町に入った
赤色以外に白や金色もある写真赤色以外に白や金色もある

ダルマ職人が集まっている豊岡・八幡地区に入ってきた。
ぽつりぽつりと、作りかけのダルマが街道沿いに現れる。
全国の張り子ダルマの8割がここで生産され、年間90万個のダルマが出荷されるそうだ。
この地域で、なぜ?
それには、上州名物「空っ風」が関わっているらしい。
からりと乾燥した風は、紙を貼りつけ、色を塗る、ダルマの工程にはうってつけ。
加えて、上州名物「かかあ天下」を生み出した養蚕業では、蚕が脱皮することを「起きる」と言い、何度転んでも起きるダルマに、良質な繭が取れるようにと願掛けする風習があったそうだ。
碓氷川の対岸の山上には「少林山達磨寺(だるまじ)」がある。
浅間山の噴火後に起こった天明の大飢饉(1783~1787年)で窮乏した村人を救うため、この寺の東獄禅師がダルマ作りを教えたという。
一個の高崎ダルマには、この地域の風土や歴史の物語がぎっしりと詰まっているのだ。

信州街道と中山道の追分の写真信州街道と中山道の追分
右 くさつみちの写真右 くさつみち
一路、西への写真一路、西へ

中山道は、下豊岡町で国道406号線と分岐する。
そこに、信州街道との分岐を示す古い道しるべがあった。
自然石には、「右 くさつみち」と刻まれている。
この道は榛名山南麓を通り、須賀尾で草津温泉へ行く草津みちと分岐したのち、さらに長野県の須坂、飯山、その先の北国街道へと結んでいく。
北国街道筋から江戸へ行くのに、信濃追分、碓氷峠と経由するよりも10里(約40km)短かったことから、北信地域との商品輸送路として重要な役目を果たしていた。
一方の草津みちは、湯治へ向かう人々でにぎわい、8代将軍徳川吉宗も、この道を経由して江戸まで草津の湯を運ばせたそうだ。

倉賀野宿から日光へ向かう日光例幣使街道、
新潟の出雲崎までをつなぐ三国街道、
鎌倉まで続く鎌倉街道・・・。
旅人は、あらゆる方角からこの地に集まり、それぞれの目的地を目指して去って行く。
古くからの交通の要衝・高崎を離れ、一路、西へと歩いて行く。

上豊岡の茶屋本陣の写真上豊岡の茶屋本陣

しばらく行くと、上豊岡の茶屋本陣があった。
参勤交代の大名や、上級武士・公家のための休憩所として、高崎宿と板鼻宿の間にあるこの地に設けられたものだ。
高速道路のサービスエリアのように休憩することを良しとする精神は、江戸期の封建社会にも確実にあった。
強制された参勤交代とはいえ、どこか明るく人間味を帯びた旅を想像するのも、こうした憩いの場所に出会えるからだ。

参照:https://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121700139/

湯沢のお地蔵様(左)の写真湯沢のお地蔵様(左)

茶屋本陣の向かいには、安政3(1856)年に建てられたという「湯沢のお地蔵様」があった。
村人は、戦時中に召集令状を受け取ると、このお地蔵様にお参りしてから戦地に赴くのが習わしだったという。
恋をし、未来を語っていたであろう当時の青年が、お地蔵様の前でずっと手を合わせていたことを思うと、無性に申し訳ない気持ちになる。
それでも、そのご利益のおかげなのか、出征した人は全員無事に帰還したというから、少し救われる思いがした。

国道18号沿いにある藤塚の一里塚の写真国道18号沿いにある藤塚の一里塚

中山道は、やがて車がビュンビュンと行き交う国道18号の広い道に合流した。
碓井川沿いに残る藤塚の一里塚が、確かにここが旧中山道であることを教えてくれた。

鼻高橋を渡り少林山達磨寺へと向かう写真鼻高橋を渡り少林山達磨寺へと向かう

この先の鼻高橋で川を渡れば、少林山達磨寺へは近い。
少し寄り道していこう。

達磨寺に着いた写真達磨寺に着いた
黄檗宗らしい中国風の門構えの写真黄檗宗らしい中国風の門構え

中山道から外れて10分ほど、見るからに黄檗宗という門構えの少林山達磨寺に着いた。
もともとは元禄10(1697)年に曹洞宗の寺として始まり、途中で改宗したということだ。
禅寺の水墨画の世界に、少し中国風の色彩が入ったような不思議な光景。
凛と張り詰めた空気に包まれながら、長く急な階段を一段一段登って行けば、頭を丸めたジェット・リーが今にも現れそうで、ここは日本ではないような錯覚に陥る。
「少林山」という言葉からくる固定観念が、こんなにも容易にイメージを作り変えることに、我ながら驚いた。

本堂に積み上げられたダルマたちの写真本堂に積み上げられたダルマたち

本堂のある場所へと登りきった。
極彩色の建物ではないけれど、どことなくにぎやかな雰囲気を醸し出しているのは、うず高く積み上げられた大小のダルマたちのせいだ。
誰のどんな願いをその一身に受けてきたのだろう。
お勤めを終えたダルマたちは、キョトンとまん丸の瞳のまま、やがて供養法要でお焚き上げされ、旅立って行く。

洗心亭へと坂道を下るの写真洗心亭へと坂道を下る

さて、下山するか。
遠く、青くかすむ山々を眺めながら境内の案内板を見ると、「洗心亭」という史跡の説明に目がいった。
ドイツの世界的建築家、ブルーノ・タウトがここに居住していたという。
名前は聞いたことはあるが、どのような人物か知識がない。
けれど、下界を見渡せるこのような山上の寺の境内に外国人が暮らしていたということだけで、十分に興味が湧いた。

洗心亭、思いのほか小さい写真洗心亭、思いのほか小さい

洗心亭は、思いのほか小さく質素な建物だった。
ナチス政権発足前にドイツを逃れ、来日してから各所を転々としたタウトは、県工業試験場・高崎分場に職を得、知人の紹介で、空き家だったこの大正建築の別荘に暮らし始める。
6畳と4畳半の二間しかないこの木造平屋を、彼と秘書エリカは大変気に入って、日本を去る2年半もの間ここで暮らしたのだ。

ブルーノ・タウト著「図説精読 日本美の再発見」(岩波書店)の写真
ブルーノ・タウト著「図説精読 日本美の再発見」(岩波書店)

タウトは日本で何を発見したのだろう。
この場所の何に惹かれたのだろう。
そんな興味が湧いて、この旅が終わった後に、タウトの著作2冊、「日本美の再発見」、そして「忘れられた日本」を読了した。
どちらも、彼の専門領域である建築を介して考察した日本の美と文化論が記されていて、その審美眼の鋭さ、洞察の深さには舌を巻く。

タウトが賞賛したもの。
それは、伊勢神宮、桂離宮、飛騨白川の農家建築、秋田のかまくら、床の間・・・。
なかでも桂離宮については、「およそ文化を有する世界に冠絶した唯一の奇蹟」「人目につかずに咲くスミレ」と絶賛していた。

(参照:ブルーノ・タウト著「図説精読 日本美の再発見」(岩波書店)p.70、p.203)

日本の風土・気候にしっくりと適応した機能美、簡素さをタウトは賞賛し、それこそが「現代的(モダン)」なのだと彼は言う。
対して、風土にそぐわない「西洋の模倣」、美の過多に堕した「いかもの(まがいもの)」を鋭く批判した。

ブルーノ・タウト著「忘れられた日本」(中公文庫)の写真
ブルーノ・タウト著「忘れられた日本」(中公文庫)

タウトはおそらく「目利き」と呼ばれる心眼をもつ人々の一人にちがいない。
日光廟と桂離宮の対比は、例として彼の著作によく登場する。

日光では、眼は見ることのみに終始したあげく、遂に疲れ果ててしまう。
これに反して桂離宮では、眼は見るにしても眼だけで見るところのものは極めて僅かである。
(中略)
日光廟では、ただ見るばかりで考えるものは一つもない。
ところが桂離宮では、思惟がなければ何一つ見ることができないのである。
(参照:ブルーノ・タウト著「忘れられた日本」(中公文庫)p.42)

天才的な鑑識眼を持ち、白洲正子の骨董の師匠だった青山二郎は、次のような言葉を残している。
「美とは、それを観た者の発見である。創作である。」と。
タウトの美に対する直観は、この青山の言葉と相通ずるのだろう。

洗心亭での2年半を含め3年半の月日を日本で過ごした後、タウトは、トルコ政府の招きで日本を去り、首都アンカラで2年間建築家として活躍した後に、1938年心臓疾患で病没した。

彼のデスマスクは、秘書エリカによって日本に持ち帰られ、達磨寺に納められたということだ。

タウトの言葉が刻まれた碑の写真タウトの言葉が刻まれた碑

ICH LIEBE DIE JAPANISCHE KULTUR
私は日本文化を愛する

洗心亭の前には、粘土板のような簡素な石碑が、あたかも風景の一部のように建っていた。
刻まれたタウトの言葉も、簡潔極まりない。

「永遠の美」とは、拠って立つ風土、気候、すべての事象と切り離して成立はしない。
文化とは、伝統から発生するものだ。

あの石碑には、そんなメッセージが込められていたのだと、彼の著作を読んでようやく理解した。

「人目につかずに咲くスミレ」
それは、タウトが愛した桂離宮への賛辞だけではなく、タウトの美学、そしてあの小さな日本家屋に暮らしたタウトの人生そのものだったのだと。

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