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【第44回】みちびと紀行 中山道を往く~シーズン1を終えて みちびと紀行 【第44回】

「中山道」の標識たち、板橋の写真「中山道」の標識たち、板橋

みちびと紀行、第29回から第43回まで連載した「中山道を往く」は、2021年の冬の終わり、東京の日本橋から埼玉と群馬の県境近くの新町宿まで、6日間にわたって歩いた旅の記録だ。

浦和の写真浦和

江戸と京都を結ぶ中山道は、武州路、上州路、信濃路、木曽路、美濃路、そして近江路という6つの区間に分かれている。
今回はこれらのうち「武州路」と呼ばれる区間を歩いたというわけだ。

旅の記録をまとめると、次の通りとなる。

  • 第1日目:日本橋発8:30am、志村一里塚着3:15pm、所要時間6時間45分、歩行距離19km
  • 第2日目:志村一里塚発8:50am、JR宮原駅着5:40pm、所要時間9時間、歩行距離25.7km
  • 第3日目:JR宮原駅発8:45am、JR北鴻巣駅着4:45pm、所要時間8時間、歩行距離22.4km
  • 第4日目:JR北鴻巣駅発8:37am、JR深谷宿着4:10pm、所要時間8時間、歩行距離25.6km
  • 第5日目:深谷宿きん藤旅館発8:00am、中の家着11:30am、所要時間3.5時間、歩行距離9km
  • 第6日目:深谷駅発9:30am、新町駅着6:15pm、所要時間8時間45分、歩行距離30.3km
さいたま新都心の写真さいたま新都心

今回の旅は、あれこれ気になったものごとに時間を気にせず向き合うスタイルをとった。
「ぶらり旅」と呼ぶのにふさわしいものだ。

桶川の写真桶川

僕はこの武州路を、これまでに5回以上は歩いている。
さすがに5回も歩けば飽きるだろうと思いきや、今回もまったくそんなことはなかった。

鴻巣の写真鴻巣

ひとつには、街道沿いの風景に、季節や時代の変化があるからだ。
目にしたことのない風景を見るようで、歩くたびに新鮮な発見がある。
これまでにはなかったものが新しくできている。その逆で、「あのときに確かあったはずのものが今はなくなってしまった」ということもある。
新しくできたもの、残されたもの、そして消えてしまったもの、、、。
この移ろいゆく姿が、街道という「生き物」を観察しているようでおもしろい。

熊谷久下の写真熊谷久下

そして、そもそも「これまでは目に入っていなかったもの」というのが結構ある。
歩くときにはいつもきょろきょろとあたりを見渡しながら歩いている。
けれど自分の意識のフィルターにはこれまで引っかからなかったのだろう。見えているようで観ていないのだ。
「ああ、自分は今、こういうことに意識が向くようになっているのか」と、自分を確認することもよくある。
「街道を歩くことで自分自身を発見する」瞬間だ。

百庚申付近の写真百庚申付近

「飽きることのない」もうひとつの理由は、街道歩きというのは「ロールプレイングゲーム」に似ていて、「主体的におもしろがる」という性質があるからだ。
パッケージツアーは便利で安心感があるけれど、あらかじめ提示されたコースメニューにそって、次々に目の前に運ばれる料理を味わうのに似ている。
街道歩きの場合は、こうはいかない。
ただ待っていても、美味しい料理にはありつけないのだ。
歩きながら「あれこれ突っついてみる」という、自分からの働きかけが旅を断然おもしろくする。
こうして突っついたことの中に、思わぬ興味深い発見があり、わきあがった興味や疑問は、歩くことでさらに深化されていく。

新町宿入り口の写真新町宿入り口

「歩行」という行為は、脳科学的にも、思索にはうってつけの環境を作り出すのだ。
今回僕は、これまで見過ごしてきた場所に寄り道すること(サッカーミュージアム、石田堤、渋沢栄一記念館など)、そして、これまでこだわってこなかったグルメ的なものに時間を費やすことで、新しい発見と楽しみを得ることができた。

東山道の図の写真東山道の図(出典:埼玉県吉見町HP)

武州(武蔵国)は、もともと東山道という律令制時代の行政区分に仕分けられている。
東山道という道は、信濃から碓氷峠を越えたあとは、高崎経由で宇都宮、陸奥国へと道が続いていた。
これが鎌倉時代となって、高崎から国分寺、町田を経由して鎌倉に至る鎌倉街道の「上道」とは別に、今の中山道の道筋をたどる枝道が成立したようだ。
やがてこの支道が、徳川家康の江戸開府と五街道整備によって、中山道という幹線道路へと発展する。

石田堤まで寄り道した写真石田堤まで寄り道した

武州を特徴づけるものは、なんといっても利根川と荒川の二大河川だろう。
上州の三国山系に発する利根川と、奥秩父に発する荒川は、古くから毎年流路が変わるほど乱流していて、武州の人々に水との闘いの歴史を課した。
鴻巣宿と熊谷宿のあいだにある「旧忍領」は、まさにその地形に運命づけられた場所だということが、今回の石田堤までの寄り道でよくわかった。
おかげで、「のぼうの城」という作品の背景が生き生きと想像できるようになった。

日本史の謎は「地形」で解けるの写真
日本史の謎は「地形」で解ける

この自然の脅威にさらされていた広大な土地を、現代に至る安定した恵みをもたらす地域に変えたのは、まぎれもなく徳川家康の功績だった。
竹村公太郎氏の「日本史の謎は地形で解ける」という著書では、そのあたりの考察が興味深く描かれていてオススメだ。

秀吉の小田原攻めのあとで、家康は秀吉から、江戸城に入り関東6カ国の領主となるよう、国替えを命ぜられる。
江戸城は、室町時代の武将、太田道灌によってすでに築かれていた。
関ヶ原の戦いの10年前となる1590年、家康とその家臣たちが江戸城に入城すると、城はすさまじく荒れ果て、城郭からの景色は見渡す限り葦の原が続く湿地帯で、雨になれば一面水浸しになる不毛の地だった。
家康の家臣たちは激高したという。
けれど、ここからが家康のすごいところだ。
江戸に移ってからは「鷹狩り」と称して、関東一円を徹底的に踏査する。
そしてこの不毛の土地が、実は「日本一広大で、日本一肥沃で、日本一豊富な水がある温暖な」土地に変わり得るという、潜在的な可能性を見抜くのだ。(参照:「日本史の謎は地形で解ける」p.30)

利根川東遷の写真
利根川東遷(出典:国交省関東地方整備局)

「坂東太郎」という異名をもつ大河川、利根川は、今でこそ霞ヶ浦の南を通って千葉県の銚子沖に注いでいるけれど、家康以前は、東京湾に向かって関東平野を不規則な流路で流れていた。
1594年、家康は、江戸から北へ60km離れた川俣(現在の埼玉県羽生市北部)で、「会(あい)の川締切り」と呼ばれる河川工事を行うことによって、利根川の流れを東に向かわせ、関東平野を耕地化する大事業に着手する。
そして30年後、家光の時代に、利根川が銚子沖の太平洋とつながり、さらに拡幅・掘り下げ工事が継続されて、5代将軍綱吉の時代に、ついに利根川が江戸をバイパスして本格的に銚子沖に流れ出した。
家康の慧眼と不屈の闘志が、何年もの時を経て実を結ぶのだ。

「悪し」と書いても「良し」と読む写真「悪し」と書いても「良し」と読む

僕には、お寺の入り口に掲げられている習字で書かれた言葉、「法語」を収集する癖がある。
その中にこんな言葉があった。
「「葦(あし)」と書いてもヨシと読む、勝手に決めるな人の善し悪し」
東海道の神奈川宿、本覚寺の門に掲げられていたものだ。
見渡す限りの「葦」の原っぱを大都市に変貌させた家康のエピソードは、この法語を思い起こさせる。
家康には、うわべではなく、ものごとの本質を見極める人徳と、マイナスをプラスに変える創造力が備わっていたのだ。

One Farm というITを活用した農業を深谷で見かけた写真One Farm というITを活用した農業を深谷で見かけた

江戸幕府の大土木事業をきっかけに、武州は屈指の農業生産地として発展を続けた。
河川が運ぶ肥沃な土壌と豊富な農業用水のほかに、河川の舟運による流通の発達、そして江戸・東京という巨大なマーケットも、農業の発展を支え続けた。
今回中山道を歩いてみて、この地域がいかに農業先進地域であるかがよく理解できた。
「世界の園芸センター」と西洋人から絶賛された巣鴨・染井の園芸作物にはじまり、浦和の農婦山田いちが発見したサツマイモの「紅赤」、桶川の紅花とうどん文化、深谷の藍とネギ。
これまでにない新しい作物を発見し、試作し、広めることに、この武州の人々は積極的だった。
利根川の舟運と中山道という陸路の交通の要衝だった深谷の町が、渋沢栄一を育んだように、交通と人々の交流は、地域に次々と「起業家」を生み出していくのだろう。

和田竜原作「のぼうの城」の写真
和田竜原作「のぼうの城」

今回の中山道歩き旅のもうひとつの発見は、「坂東武者」の存在の大きさだ。
中山道沿いにある江戸の鎮守「神田明神」として祭られている平将門、鴻巣の先の箕田源氏、忍城の武将、熊谷の鎌倉武士・熊谷直実。
これらの武将たちだけでなく、深谷の農家だった渋沢栄一とその仲間たちも、坂東武者の心意気を持ち、武士たらんとしていた。
僕なりの解釈で「坂東武者」の気風をとらえるならば、「反骨精神」という言葉が当てはまるだろう。

平安時代、京都の政権から見れば「坂東」は辺境の地だった。
「坂東」とは、足柄峠および碓氷峠の坂から東側の地域を意味する。
平安時代中期からは、この地域が次第に主張を強め、ついに東国の武士団を中心とした軍事力を背景に、鎌倉幕府が成立した。
そして、室町、戦国と時代を経て、徳川家康の下に、これら坂東武者たちが結集する。
家康は、関東への国替えによって、大きな経済的富をもたらす関東平野という宝物のほかに、坂東武者という強大な軍事力をも手に入れるのだ。
江戸時代は、世界史的に見ても稀有な、265年間という長期におよぶ平和な時代だったのだけれど、もともと反骨精神を持つ坂東武者たちは、なぜ新しくやってきた徳川家にはすんなりと付き従ったのだろう。
あれこれ推測するに、おそらく最大の要因として、「関東平野の大耕地化」があったのではないかと思う。
なんといっても家康は、この豊かで広大な土地を奪いとったのではなく、作り出して与えたのだから。
そして家康には、「戦国の世を終わらせる」という大義があった。
「義」を重んじる坂東武者たちも、これには心から平服せざるを得なかったのではないだろうか。

旅の続きはまた今度の写真旅の続きはまた今度

中山道は群馬県に入って、この先は「上州路」という区間となり碓氷峠に向かっていく。
群馬ではどんな発見があるだろうかと、今から楽しみだ。
けれど、中山道歩きの続きは、またの機会にゆずることにしよう。
旅の楽しみというものは「とっておく」に限る。
登山のあとのビール、サウナのあとの水風呂のようなもので、渇望すればするほど、旅への衝動は高まり、感性が研ぎ澄まされ、格別な味わいとなっていく。
旅は、日常ではないからこそ旅だ。
そんなことを思いながら、日常の生活と向き合っている。

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