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【第85回】みちびと紀行~鎌倉街道を往く(源義高) みちびと紀行 【第85回】

西大家駅を降りていく高校生たちの写真西大家駅を降りていく高校生たち

8:00am、東武越生線・西大家駅ホームに入った電車から、制服を着た高校生たちがぞろぞろと降りていく。
今日は3月30日水曜日。学校は春休みではないのか。
コロナ禍の変則的なものか。
とっくの昔からそういうことになっているのだろうか。
そんなことを思いながら、駅のベンチで身支度をし、ひとり改札を出て行く。
鎌倉街道歩き旅・第5日目が始まった。

おばさん顔のお地蔵様の写真おばさん顔のお地蔵様

線路を渡り、街道を辿り始める。
駅裏の赤い襟巻きをしたお地蔵様は、小学生の頃に通った駄菓子屋のおばさんそっくりだ。
静岡では、駄菓子屋に、マス目のある四角い「おでん鍋」が置いてあるところが多い。
子どもはおやつ代わりに、真っ黒なだし汁の中から串に刺したおでんを取り出しては食べ、その串の本数でお勘定をする。
おばさんはいつも手首に輪ゴムをはめて、串の数をごまかすやつがいないか、穏やかに見ていた。
今思うに、生意気な小僧どもを相手にするのは、さぞかし忍耐を必要としたことだろう。
子どもを見守るお地蔵様に、あのおばさんの顔がふさわしく思えた。

鎌倉街道の掘割が水路になっている写真鎌倉街道の掘割が水路になっている
細々と街道が続いていく写真細々と街道が続いていく
送電線の下を通る写真送電線の下を通る
アメリカの雰囲気の写真アメリカの雰囲気

春の田園風景の中を街道が続いていく。
広大な農地を、ある時期にどんどん宅地に造成したような、整然とした道を通る。
庭でバーベキューをしていそうな、どことなくアメリカナイズされた作りの家がちらほらとある。
かつて米軍が接収していた入間基地が近いせいかもしれない。
ハワイ、カリフォルニア、サンタモニカ・・・。
やたらと歌謡曲に織り込まれたそんな地名が、オシャレと憧れの代名詞だったことを思い出す。
そういえば、「アメリカナイズ」という言葉を久しぶりに使った。もはや死語か。
いったい、いつから使われなくなったのだろう。
僕らがアメリカ文化を吸収し尽くしたのか。
アメリカ文化にそれほどの憧れを抱かなくなったのか。
それとも、ひとつの国の文化を気にとめる必要もないほど、世の中が「グローバル化」してしまったのか。
そうだとすれば、退屈な世の中だ。
と、ひとり両手を開いて肩をすくめてみた。

何かの工場の跡の写真何かの工場の跡か
ルパン3世が乗っていた車の写真ルパン3世が乗っていた車
牛舎の跡の写真牛舎の跡か

JR川越線を渡る写真JR川越線を渡る

JR川越線の踏切を渡って、「女影(おなかげ)」という地区に入っていく。

レトロな形の時計台を過ぎて行くと、立派な参道がある霞野神社の境内に「女影ヶ原古戦場跡」があった。
建武2(1335)年、鎌倉幕府最後の執権だった北条高時の遺児・時行が起こした、「中先代の乱」の初戦が行われた場所だ。
鎌倉幕府再興のため信濃から挙兵した時行は、ここで足利尊氏の弟・直義が派遣した軍勢を破り、破竹の勢いで進軍し、いったん鎌倉を取り戻した。
「いざ鎌倉」と、この街道を進んでいった武士団は、当初は鎌倉を守るために馳せ参じた者たちだった。
それが、鎌倉時代の末期では、「いざ鎌倉」と攻めのぼったのだから皮肉な話だ。

レトロな女影時計台の写真レトロな女影時計台
霞野神社の境内に古戦場跡がある写真霞野神社の境内に古戦場跡がある
鎌倉街道上道碑は工事現場のわきで肩身が狭い写真鎌倉街道上道碑は工事現場のわきで肩身が狭い

「鎌倉街道上道碑」と彫られた独特な形の自然石を目にする。
このあたりは、少し前までは木々が鬱蒼と繁る切り通しで、鎌倉街道の面影が残る場所だったらしい。
今ではそんなことが全く想像つかないほどに、森がごっそりと伐採され、今秋にも工場が建つそうだ。
街道は「生き物」みたいなものだから、時代に合わせてその姿を変えていくのは致し方ない。
残念に思う気持ちをこらえて自分を納得させた。

鎌倉街道交差点の写真鎌倉街道交差点

その名も「鎌倉街道」という交差点を抜けて、ゴルフ場のわきをまっすぐに進んでいく。
圏央道をくぐると、「智光山公園」の桜並木だ。

圏央道をくぐっていくの写真圏央道をくぐっていく
智光山公園の通りは桜が満開の写真智光山公園の通りは桜が満開
工場団地を抜けていく写真工場団地を抜けていく

その先は打って変わって、工場団地となった。
行き交う大型トラックの中に、若い女性ドライバーを2人ほど見かけた。
「トラガール」と呼ばれているそうで、国土交通省では、「トラガール促進プロジェクト」を2014年から実施中だ。

(参照: https://www.mlit.go.jp/jidosha/tragirl/

出典:平成25年総務省労働力調査の写真
出典:平成25年総務省労働力調査

データは少し古いが、総務省の「平成25年労働力調査」では、全産業の女性就業者数は、もはや42.8%までに高まっているのに対し、貨物の女性ドライバーの割合は2.2%と極端に低い。
トラック業界は高齢化が進み、有効求人倍率も「2倍以上」と突出しているのに、募集してもなかなか人が集まらないそうだ。
物流の問題は、東日本大震災やコロナ禍などの緊急事態を例にあげるまでもなく、平時でもその重要性は理解できる。
優れた物流網は、日本の産業の強みでもあるのだから。
長いこと円高だった時代に海外に出て行った工場が、円安となって日本に戻ってくることを僕は期待しているけれど、こういった人材や電力の不足も、日本回帰に二の足を踏ませている課題なのかもしれない。

影隠地蔵の写真影隠地蔵

工場地帯を抜けると、「奥州道交差点」に、「影隠地蔵(かげかくしじぞう)」と呼ばれるお地蔵様が佇んでいた。
木曽義仲の嫡男で、実質上の人質として源頼朝の娘・大姫と結婚した源義高が、鎌倉から逃れて行く途上で、追っ手の目をかわすため、このお地蔵様の背後に隠れたと伝わっている。
きっと義高は、隠れながらお地蔵様に必死に祈っていたはずだ。
結局この後、義高は捕らえられたから、お地蔵様は守ってはくださらなかった。
「影隠地蔵」という呼び名は言い過ぎだと、神や仏の慈悲に勝手に期待してしまう自分を腹立たしく思った。

義高の系譜の写真義高の系譜

入間基地が近い写真入間基地が近い
入間川の桜並木が美しい写真入間川の桜並木が美しい

大型の飛行機が、雲の中を通り過ぎていくのを見送った。入間基地は近い。
歩き出すと、やがて入間川(いるまがわ)に出た。
昔はこの辺りの浅瀬を「八丁の渡し」と呼び、徒歩で渡っていた。
新富士橋の上からしばらく春の川景色を眺める。
遠くまで続く桜並木の土手を、人々が歩いていく。
心の内はいざ知らず、遠目には、今この瞬間、すべての人が幸せそうに見えた。

義高を祀る清水八幡宮の写真義高を祀る清水八幡宮

川を渡ってすぐ、右方向に歩いていくと「清水八幡宮」があった。
ここには、「清水冠者(しみずのかじゃ)」と呼ばれた源義高が祀られている。
義高はここで、鎌倉からの追っ手、藤内光澄(とうないみつずみ)によって討たれたと伝えられている。
愛する夫を失った大姫は、悲嘆に暮れて病に臥せ、母・政子は激怒して、光澄を打ち首にしたという。
そして、彼女は義高を祀る壮麗な社を建てた。
ただ、入間川の流れは、死後も義高に平穏な場所を与えはしなかった。
お社は何度も洪水に遭い、元々の場所がどこだったか定かではないまま、小さなお社として再建され、今ここにある。
義高の悲劇は、「居場所」に恵まれなかったこと。
鎌倉を逃れた彼は、かつて祖父・義賢がいた大蔵館、そして、父・義仲を庇護した畠山氏の菅谷館を頼りに、北上していったと言われている。
けれど、そこでの庇護は望み薄だっただろう。

参照:【第83回】みちびと紀行

自身が安心して居られる場所がある。
そんな何気ない日常は、実は得難く、この上なく幸せなことなのだ。
あの桜並木は、彼の魂を癒しているだろうか。
しばらく川べりに立って、そのことを思った。

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