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【第83回】みちびと紀行~鎌倉街道を往く(武家の棟梁) みちびと紀行 【第83回】

武蔵嵐山駅に着いた写真武蔵嵐山駅に着いた

7:57am、東武東上線の電車が、武蔵嵐山駅のホームに滑り込んだ。
鎌倉街道歩き旅・第4日目は、この駅から始まる。
3月26日の今日、週間天気予報ではずっと雨模様だった。
が、昨日からにわかに好転して「傘マーク」が消えた。
「今日の旅を楽しんで」と、お天道様が晴天を恵んでくれた。

駅前通りの無人販売の写真駅前通りの無人販売

武蔵嵐山までは、都心から約1時間。
ほんのわずかな時を経て、こんなにのどかな風景の中にいる。
「のらぼう菜?」
駅前の無人販売スタンドに、初めて聞く名の「朝摘み野菜」が並べられている。
この辺り一帯で栽培されている野菜らしい。
みずみずしく新鮮で美味そうだ。

畠山重忠の像の写真畠山重忠の像、平服だとまた違ったイメージ

駅から歩いて15分、「菅谷館(すがややかた)跡」に着いた。
畠山重忠が住んでいた場所だ。
前回訪れた「畠山庄」よりも、鎌倉街道沿いのこちらの方が、要衝を押さえるには好都合だっただろう。
畠山氏滅亡後、戦国時代に入ってからは、山内上杉氏がここに城を構え、さらに後で北条氏が城郭の改良を加えた。

広大な菅谷館跡の写真広大な菅谷館跡

東京ドーム3個分の広大な緑地の中には、ちらほらと春の花が咲いている。
野趣あふれる武蔵野の風景が、昔からそうであったように残され、この先もずっとこのままであり続けていくように思えた。

桜が咲いていた写真桜が咲いていた
この辺りにはホタルもいるらしい写真この辺りにはホタルもいるらしい
都幾川を渡る写真都幾川を渡る
都幾川の桜堤の写真都幾川の桜堤

都幾川(ときがわ)を渡っていく。
土手の桜は、明日にでも開花しそうだ。
遠くまで続く並木が、そのつぼみで薄桃色にかすんでいた。

大蔵館跡は神社になっていた写真大蔵館跡は神社になっていた

田園の向こうに、こんもりと森に覆われた「大蔵館(おおくらやかた)跡」が見えてきた。
久寿2(1155)年に、「大蔵合戦(おおくらかっせん)」という戦いが起こった場所だ。

参照:ウィキペディア「大蔵合戦」

込み入った話をかいつまんで言えば、「どちらが一族の長・当主なのか、力づくではっきりさせようではないか」と、武家の嫡流(本家)を賭けて、同族同士で争ったのがこの戦いだ。
関わったのは、河内源氏と秩父氏の両氏族。
「登場人物」をそれぞれ陣分けすると、以下の通りとなる。

【A軍】「嫡流」タイトル保持者

  • 源為義(河内源氏の当主、長子・義朝とは不仲)
  • 源義賢(為義の次男、義朝への対抗馬として北関東に送られた大蔵館の主)
  • 秩父重隆(秩父氏の当主、義賢の義父)

【B軍】「嫡流」タイトルを奪取しようとする側

  • 源義朝(為義の長男だが父とは不仲、実力で鎌倉に拠点を築く)
  • 源義平(義朝の長男、都へ戻った義朝から相模一帯の地盤を預かる)
  • 畠山重能(秩父重隆の甥、畠山庄に移って以後、畠山氏を名乗る)

争いの根っこ、源為義・義朝親子は、この場にはいない。二人とも遠く京の都にいた。
が、この大蔵館を舞台に起こった戦いは、両者の「代理合戦」の様相を呈した。

大蔵合戦の登場人物の写真大蔵合戦の登場人物

義朝は、自力で築いた関東の地盤を脅かそうとする父・為義と、その差し金で派遣された弟・義賢に我慢がならない。
その長子・義平も同様で、実力を行使して叔父・義賢を倒し、相模に加えて北関東にまで所領を広げようと野心を抱いた。
もう一方の軸、秩父氏においては、その家督が長男の秩父重弘ではなく次男の重隆に譲られたことが、重弘の子・畠山重能に遺恨を残した。
すでに畠山姓を名乗ってはいたが、秩父氏当主の座を自己の系統にただしたい。そんな思いを持っていた。

参照:【第81回】みちびと紀行

結果は、タイトル挑戦者・B軍の勝利となった。
源義賢は、甥である義平に討たれ、河内源氏の当主の座は、実力で義朝・義平親子のものとなった。
一方の秩父氏も、重隆が討ち取られたことでその系統が衰退し、以後は重能の勢力が増す。
やがて息子・重忠の代で大躍進を遂げ、秩父氏「本家」の座を得ることとなる。
ちなみに、この時大蔵館にいて、殺されることになっていた2歳になる義賢の遺児は、畠山重能によって匿われ、信濃へと逃された。
この遺児が、後に旭将軍・木曾義仲となって、義朝の三男・頼朝と雌雄を決することになる。

御成敗式目の写本の写真御成敗式目の写本

ここまで歩いてきて、疑問に思い始めたことがある。
「武家の最優先事項は、一族と所領である」ということに、疑いはない。
けれど、なぜ一族同士で殺し合いつぶし合うのかと。
どこが本家か?本流はどの系統か?誰が武士団を束ねる「武家の棟梁」としてふさわしいのか?
この問いこそが、鎌倉武士の争いを理解するカギなのではないか。
そんな考えが湧いてきた。

鎌倉時代の相続制度の基本は、「惣領制」といって、相続の対象となる「所領」と「地頭職」の主要部分を、一族を統率する能力のある者が「惣領」(本家)として継承することにあったらしい。

参照:かもめ総合司法書士事務所HP

「一族を統率する能力のある者が」という部分が肝心で、それは、「誰それが嫡子だからね」と決めたところで素直に認められるものではなかったようだ。
つまるところ、その能力とは、この時代では武力、ということになる。

所領問題がいかに争いの種となっていたかということは、執権・北条泰時が制定した「御成敗式目」を見れば理解できる。
この全51箇条から成る武家の法令集の中で、所領に関する項目は21箇条と飛び抜けて多く、それ以外の条項においても、罰則規定はたいてい「領地の没収」だからだ。

参照:現代語訳「御成敗式目」全文

「一所懸命」と所領を守り、あわよくば少しでも増やそうと、懸命に努力してきたのが武家。
そして、その所領を安堵してくれる、実力を伴った権威こそが、武家の棟梁・「鎌倉殿」なのだろう。

細川重男著「頼朝の武士団」の写真細川重男著「頼朝の武士団」

下田街道を歩いたとき、「侠客」という言葉が頼朝にあてはまりそうだと直感したことがある。

参照:【第74回】みちびと紀行

その後、鎌倉幕府の理解を深めるために「頼朝と武士団」という本を取り寄せた。
その面白さに引き込まれるように一気に読んだが、読み終わって「やはり」と確信した。
あたかも、鎌倉時代(特に、初期)の一連の事件は、ボスに対する忠誠、「シマ」や「シノギ」の安堵、「何某一家」の頭目争い、組同士の抗争等々、極道の世界に当てはめると理解は早いのだ。

源義賢の墓所の写真源義賢の墓所

源義賢の墓へと向かう。
大蔵館からは歩いてすぐのはずが、どこから道が通じているのか、その場所になかなかたどり着けない。
「源義賢のお墓に行きたいのですが・・・。」
ちょうど花壇の手入れをしていた女性に尋ねると、よく訊かれる質問だったようだ。
にこやかに、かつ的確に、その場所を教えてくれた。
義賢のお墓は、民家の敷地の中に密やかにあった。
世が世であれば、河内源氏の嫡流は、源頼朝ではなく、義賢の側にあったのかもしれない。
そんなことを思いながら、五輪塔の墓に向かって静かに手を合わせた。

鎌倉街道の碑があった写真鎌倉街道の碑があった
ウクライナ国旗がはためいていた写真ウクライナ国旗がはためいていた

民家の門前に、ウクライナ国旗がはためいている。
もし今、日本人と日本の国土が蹂躙されたとしたら、海外のどこかで、日の丸は掲げられるだろうか。
この先は、丘陵地帯を登る坂道だ。
薄曇りとなった空の下を、鎌倉街道が続いていった。

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