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【第24回】みちびと紀行 ~山の辺の道を往く(二つの出雲) みちびと紀行 【第24回】

狭井神社の写真狭井神社を参拝皆マスクをつけている

日本最古の神社、大神神社の境内には、本殿の他に様々なお社があって、知恵・学業向上、芸能上達、財宝・金運、夫婦円満、身体健康・病気平癒・疫病退散などなど、あらゆるご利益を担当する神々がお集まりになっていた。
あれこれ要望はあれど、人生の折り返し地点を過ぎた身としては、多くのことをお願いするのも気が引ける。
まずは身体の健康と、この憎っくきコロナ禍の退散だろう。
迷わず、そのご利益がある狭井(さい)神社に向かった。

狭井神社は、「清らかな水」という印象。
静かな水を湛えた池の脇の参道を進んでいくと、鳥居の向こうに拝殿が見えてきた。
飾り気がなく、簡素な美しさをもつ拝殿で、「実直な神様」という感じがする。
コロナ禍だからなのか、参拝客は意外に多く、柏手の音が絶えない。
拝殿の横手からは、大神神社の御神体、三輪山への登山口があって、幾人かマスクをつけて登っていった。

狭井神社の横から三輪山に登拝できる写真狭井神社の横から三輪山に登拝できる

狭井神社の池のほとりには、「清明 三島由紀夫」と彫られた石碑があった。
説明板を読むと、昭和41年(1966年)6月24日に、三島由紀夫が三輪山頂上に登拝し、お山を下りた後で、直ちに色紙にしたためた文字が「清明」だったとのこと。
後日、以下の文面で大神神社に感懐が寄せられた。

   

「大神神社の神域は、ただ清明の一語に尽き、神のおん懐ろに抱かれて過ごした日夜は終生忘れえぬ思ひ出であります」

 

この時の取材が、三島由紀夫最後の長編小説「豊饒の海」の第二巻に結実しているらしい。
三島由紀夫は、この「豊饒の海」最終巻の入稿日に、市ヶ谷で割腹自殺した。

山の辺の道には、少なくとも3つ、昭和の大作家ゆかりの石碑がある。
一つは、この三島由紀夫の「清明」。
二つめは、ここまでの道のりで見た、小林秀雄の揮毫による「山邊道」の道標。
そして三つめは、この先の井寺池のほとりにある、ヤマトタケルの「大和し美し」の歌碑。川端康成の揮毫によるものだ。
川端康成は、数ある古歌の中から、自身でこの歌を選び、この辺りを散策したのち自ら石碑の立つ場所を指定し、しかも「子どもたちが遠足にきて、歌碑に腰掛けて弁当を食べてくれるような形のものを」と注文したらしい。
そして、その3ヶ月後に、ガス自殺してしまった。
3人がそれぞれ、この日本最古の官道にたどり着いた心境とは、どんなものだっただろう。
大作家たちの気持ちを推し量ることは難しいけれど、少なくとも3人の共通点のひとつに、この山の辺の道がある。

坂の道が続く写真坂の道が続く

狭井神社から先、山の辺の道は、上り下りの山道で、滑りやすいところもあり、慎重に進んでいく。
道ぞいに、柿やミカンの無人販売をちらほら見かけるようになってきて、今買おうか?先に行けばまだあるか?いやいやこれを逃したら先はないかも?などと、足元への注意が散漫になるので、さらに要注意。

檜原神社の三ツ鳥居の写真檜原神社の三ツ鳥居

やがて、眺望が開けた場所にたどり着いた。「元伊勢」と呼ばれる桧原神社だ。
日本書紀によれば、崇神天皇の御代に、それまで宮中に祀られていた天照大神を、皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に命じて笠縫邑(かさぬいむら)に祀らせたとあり、その笠縫邑があったと推定されている場所のひとつがどうやらここらしい。
天照大神の御霊は、その後、豊鍬入姫命の姪にあたる倭姫命(やまとひめのみこと)と共に各地を巡行し、やがて伊勢の地に至ってようやくそこに留まる。

遠くに二上山が見える写真遠くに二上山が見える

宮中を出たあと、どうして最初にこの地に決めたのかは、ご由緒の説明板には書かれていなかったけれど、三ツ鳥居に向かって「回れ右」をしてみてなんとなくわかるような気がした。
そこから見渡す大和平野、そして遠方にくっきりと稜線をつくっている二上山が、神々しくも美しかったから。

穏やかな気持ちになっていく写真穏やかな気持ちになっていく

山裾の、人の手が入った穏やかな景色を眺めながら進んでいくと、ミカン園が見えてきた。
その先、道標は、左に曲がると山の辺の道の続き、右に行くと「纏向日代宮跡(まきむくひしろのみやあと)」とある。
ちょっと寄り道して、右に坂道を登っていくと、ほどなく、大和平野のすばらしい眺望が得られる場所に出た。纏向日代宮があった所だ。

たたなづく青垣 山ごもれる 大和し美し の写真たたなづく青垣 山ごもれる 大和し美し

纏向遺跡は、総面積が約3km2と広大で、日本各地の土器がここから出土したことから、かなり広範囲の地域との交流があったことが認められている。
ここに宮殿を築いた景行天皇は、ヤマトタケルの父親で、少なくとも彼が子どもの頃はここにいただろうから、彼が死に際して「やまとしうるわし」と歌った故郷の風景は、ここから眺めたものだったのかもしれない。
大和平野の向こうに、青い山々がかすんでいた。

相撲神社の拝殿の写真相撲神社の拝殿

さらに坂を登っていくと、力士の石像が見えてきた。相撲神社だ。
日本書紀にある、当麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)の力比べは、この地で行われたようだ。
「国技発祥の地」の説明板があって、昭和37年に、日本相撲協会の時津風理事長(元横綱双葉山)を祭主に、二横綱(大鵬、柏戸)と五大関、そして幕内全力士がここに参列した、とある。
それ以後、相撲協会の方々がここを訪れているかどうかはわからなかったけれど、こうして、相撲の発祥地と言われている場所に参拝していたことを知って安心する。
伝統は大事にした方がいいよな、「国技」というからには。
山の辺の道から外れているせいなのか、人の気配はなく、小さな拝殿はひっそりと僕を迎えていた。

「野見宿禰と大和出雲」の写真
「野見宿禰と大和出雲」

この力比べの逸話は、日本書紀に記されている。
垂仁天皇の御代に、天皇のお側に仕える者が、こう奏上した。
「当麻蹴速という勇者がいて、『俺にかなう者はこの世にはおるまい。どうにかして強者にあって命がけで力比べをしたい』と申しております」と。
垂仁天皇が、「誰か力比べできる勇者を知っておらぬか?」と尋ねたところ、ある臣下が「出雲の国に野見宿禰という勇者がおります」と奏上した。
そこで、「その日のうちに」野見宿禰を呼び寄せ、当麻蹴速と力比べをさせると、二人は蹴り合いを始め、ついに宿禰は蹴速を蹴り殺してしまったという。
「キックボクシング?」というツッコミはここではやめておく。

僕は、この逸話は知っていて、この地を訪れた時には特に気にもしていなかった。
改めてこの話に興味を持ったのには、こんな経緯がある。
山の辺の道を歩いてみて、古代に奈良盆地には巨大な湖があったという事実を知った。
参照:【第22回】みちびと紀行  http://michi100sen.jp/specialty/michibito/022.html
そして、Googleマップで地形を確認した時に、どうにも気になったことがある。
三輪山の東側に、なんと「出雲」という地名を見つけてしまったのだ。
「なんなんだろう、この出雲という地名は?」
旅から戻って、この大和にある「出雲」のことを調べてみると、ある書籍に辿り着いた。
池田雅雄氏が書かれた『野見宿禰と大和出雲』という本で、その中で、大和地方にも「出雲」という古くからある地名があり、この「大和出雲」の人々が、今の島根県に行ったということも考えられるのではないか、という説を控えめに紹介していた。
どうやら従来の古代史学では取り合ってもらえない説らしく、ジャーナリストである池田氏も、歴史学がご専門ではなくて、その歯がゆさが内容から感じ取れた。
彼が引っ掛かったのは、出雲国がある島根県は、この大和地方からははるかに遠いのに、なぜ呼んだその日のうちに野見宿禰がやって来れるのか、という点だ。
いずれにせよ、三輪山の東側にある出雲からこの纏向には、日本書紀の記述通り、呼んだその日のうちに到着できる。
そして、その「大和出雲」にある十二柱神社には、なんと、野見宿禰が祀られている!
野見宿禰は、島根県の出雲から来たのではなく、近隣の出雲地域から来たと考える方が、どうも理にかなっているように思える。
「いずれにせよ神話でしょ?」というちゃぶ台返しはしない。
「なぜそういう物語がこれまで語られてきたのか?」という問いは残るし、僕の関心はそこにあるから。
なぜ僕らは、野見宿禰が島根県の出雲からこの大和地方まで相撲をとりにきたということに、これまで疑いを持たなかったのだろう?
なぜ「海原に鴎立ち立つ」が、「池に白い水鳥が飛んでいる」と思わされていたのだろう?

「自分で歩く」という行為は、思考回路をも自立的にするのかもしれない。
その先さらに続いていく山の辺の道を、「歴史ミステリー」の手掛かりを求めて、歩き続けていった。

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