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【第22回】みちびと紀行 ~山の辺の道を往く(やまとしうるわし) みちびと紀行 【第22回】

大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 大和し 美(うるわ)し
~倭建命(やまとたけるのみこと)

街道を歩いていると、行く先々で足跡を残している人に出会う。
空海、西行、義経、円空、芭蕉、牧水、山頭火、、、。
彼らに共通していたのは、日本のあちこちを渡り歩いたという、漂泊の性(さが)。
僕は勝手に、そういう人々のことを「みちびと」と呼んでいる。
ヤマトタケルは、その「みちびと」の筆頭格だ。

武勇にすぐれ、「空気を読めない」ところがあったこの青年を、父の景行天皇は恐れ、生涯身辺に置くことはなかった。
息子が九州の熊襲征伐から戻ったのを知るや、すぐさま東方征伐に旅立たせ、追いやる。
数々の冒険、苦難、最愛の妻の死を乗り越えた末に、伊吹山の神に戦いを挑み、瀕死の重症を負い、三重県能褒野(のぼの)の地で、ついに死を迎える。
その時の歌が、この「やまとしうるわし」だと、古事記に記されている。
僕にとって「声に出して読みたい日本語」は、まさにこれ。
この場合の「やまと」は、ヤマト政権成り立ちの頃の状況からすれば、日本全体ではなく、「大和地方」、今の奈良盆地のあたりを指すのだろう。
ヤマトタケルといえば、当然富士山も見ているし、全国の美しい風景を見てまわったはずだけれど、死に際して焦がれるほど美しく思えるものは、やはり故郷の風景だったのだ。
その一つのことだけで、僕はすっかり、この英雄に対して親近感を抱いてしまった。

ヤマトタケルが愛した「やまとしうるわし」の風景は、どこに行けば見れるのだろう。
ネットで検索すると、「やまとうるわし」の歌碑は、山の辺の道にあることがわかった。
ノーベル文学賞を受賞し、その記念講演で「美しい日本の私」を論じた、川端康成の揮毫によるものらしい。
そして、季節は秋。奈良では、僕の好物の柿がちょうど熟している頃だ。
よし、行く先は決まった!
、、、こんなわけで、僕は今、山の辺の道の歩き旅の、スタート地点に立っている。

桜井駅前の道しるべの写真桜井駅前の道しるべ、いきなりテンションが上がる

スタート地点の桜井駅の観光案内所では、写真が豊富な最新の地図ももらえたけれど、僕はこのてくてくマップがお気に入りだ。
手書きの味わいがあって、尚且つシンプルにまとまっている。
写真がない分、実際に現物を目にするまでの間、想像力とワクワク感を掻き立ててくれる。

今日は暑くもなく寒くもなく、風もおだやかで、絶好の街道歩き日和。
さわやかな秋空のブルーがどこまでも広がり、広葉樹の落葉の甘い香りがどことなく漂っていて、思わず深呼吸する。
9:00am、さあ旅の始まりだ!

地図と道しるべにしたがって進んでいくと、やがて「三輪そうめん」の看板や製麺所をちらほらと見かけるようになった。
僕は関西の人間ではないので、そうめん文化についてはよく知らなかったけれど、「三大そうめん」というものがあって、播州、小豆島、そしてこの三輪が最も有名な産地らしい。
奈良県三輪素麺工業協同組合のホームページをみると、こう書かれていた。
「日本の麺食文化のルーツを遡れば、そうめんに至り、そうめんの歴史を遡れば、大和国の三輪で生まれた手延べそうめんに至ります」と。
三輪そうめんは、西国からお伊勢参りの途中で立ち寄った人々を魅了し、やがてその製法が、播州や小豆島にも広まっていったらしい。
あいにく朝食を摂ったばかりで、お腹に空きスペースがなかったけれど、お昼どきにここを通ったら、昼食には間違いなくそうめんを選んだだろう。

海石榴市から大和川上流を望む写真海石榴市から大和川上流を望む

若干の心残りとともにその一帯を通り過ぎると、やがて大和川が見えてきて、川べりに「海石榴市(つばいち)」の案内板があった。
ここは日本最古の市(いち)があったところで、どうやらここが、山の辺の道の起点であり終点だということだ。
大和川を渡ると、さらに「仏教伝来の地」の石碑と案内板があった。
欽明天皇の御代に、百済の聖明王が遣わした使者がこの港に到達し、仏教を伝えたと書いてある。

「それにしても、どうしてここが?」と、僕はあたりを見回して腑に落ちなかった。
目の前には、川幅もそれほど広くない大和川、上流には山が連なり、そのほかは平地が広がっているだけだ。
調べてみて合点がいった。
奈良盆地は、かつては巨大な湖で、ここは、大阪の難波津からの水上ルートの最終地点だったのだ。
古代は、外国からの賓客やヤマト政権の要人が、この水上ルートを辿って交流したらしい。
そして陸のルートでは、ここから北上して春日神社のあたりまで達するのが「山の辺の道」、日本最古の官道だ。
東に、大和川を遡って進んでいくと、やがて伊勢に到達する「伊勢街道」になる。
ここはまぎれもなく、古代の街道の十字路だったのだ。

さっそくGoogleマップの航空写真で地形を調べてみる。
なるほど、奈良盆地が巨大な湖だったとすると、山の辺の道はちょうどその湖畔をなぞるようなルートになっている。
大和平野を突っ切れば便利なのに、日本最古の官道が、なぜわざわざ山道にあるのかと不思議に思っていたけれど、これで納得がいった。

ついでにもう一つ、僕の中で長年のモヤモヤが解消できたことがある。
それは、確か中学校で習った、万葉集の中のある歌についての疑問だ。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山
登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ち立つ
海原は 鴎立ち立つ
うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は
~舒明天皇
海石榴市の「仏教伝来の地」の碑の写真海石榴市の「仏教伝来の地」の碑

日本の美しい風景が眼に浮かんできそうな歌だけれど、問題は「海原は鴎立ち立つ」のところだった。
確か、学校の先生から、「海原と言っているけれど、天香具山からは海が見えないので、これは池のことです。カモメと言っているけれど、これはカモメに似た白い水鳥です」と教えられて、何やら釈然としなかったことを覚えている。
「池」も「水鳥」も昔からそういう言葉があっただろうに、なぜそれを使わずにわざわざ「海原」「鴎」というのだろう?
しかも「海原」って、「うみ」よりも広大なイメージだよな、、、と。

奈良湖の写真実在したといわれている奈良湖(弥生時代)出典:古代と遊ぼう

奈良盆地がかつては巨大な湖だったとわかって、この歌が本来持つ美しさと、国を思うスケールの大きさとその情感を、ようやく理解できたような気がした。
やはりここに海原があって真っ白なカモメが空に浮かんでいる光景を、舒明天皇だけでなく、ヤマトタケルも同じように見ていたと思いたい。
うまし国ぞ あきづしま 大和の国は。
やまとしうるわし。

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