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東北復幸漫歩~歩くことで見えるコト~

【東北復幸漫歩 第6回】みちびと紀行~相馬街道を往く 東北復幸漫歩~歩くことで見えるコト~

飯舘村に、陽はまた昇る

県道12号原町・川俣線を歩く写真県道12号原町・川俣線を歩く
八木沢宿塩倉跡の写真八木沢宿塩倉跡

八木沢峠を越えて、県道12号原町・川俣線を歩いていく。
道のわきに、「塩の道 八木沢宿 塩倉跡」の碑を見つけた。
こうやって実際に「塩の道」の痕跡を目にすると安心する。
松川浦の製塩所から相馬街道を通って運ばれた海塩は、ここに確かに貯蔵されていたのだ。
時刻は3:00pm、今晩予約している飯舘村(いいたてむら)の「宿泊体験館きこり」は、Googleマップ上では、ここから歩いて2時間36分、距離にして12.5kmだ。
「きこり」という名前からして山中にありそうだ。暗くならないうちに宿に着きたい。
すこし焦ってきた。

八木沢から宿泊体験館きこりまでの道のりの写真
八木沢から宿泊体験館きこりまでの道のり

やがて、「冬季車両通行止」の八木沢峠越えの道が、トンネルの開通によってできた新道に合流した。
隣の南相馬市から来る車は、トンネルを抜けたこの地点で、飯舘村の景色に出会うことになる。

復興エリアの推移(2017年4月)出典:福島県企業立地ガイドHPの写真復興エリアの推移(2017年4月)出典:福島県企業立地ガイドHP

2011年の東日本大震災の後に発生した福島第一原発の事故で、空中に放出された放射性物質は、雲となり北西方向に流れ、不運なことに、この飯舘村に雨となって降り注いだ。
2011年4月22日、政府は、年間積算線量が国の指定する基準値を超えていることを理由に、飯舘村全域を「計画的避難区域」に指定し、全村民の避難を指示した。
阿武隈山系の高原丘陵に位置し、飯舘牛、御影石、野菜、花卉などの特産品があり、「日本で最も美しい村」連合に名を連ねていた飯舘村は、これ以降、コミュニティ崩壊の危機と向き合わざるを得ない事態となる。
2017年3月末、根気よく続けられた除染作業の後に、飯舘村に対する避難指示は、長泥(ながどろ)地区を除き解除された。
その半年後までに帰還した村民は約450人、多くは高齢者で、若い世代は仕事や学校の事情で帰還するには至っていない。
東日本大震災前の飯舘村の人口は約6,500人、その人口の7割は、今も飯舘村の外で暮らしている。

「『までいの村』に帰ろう」の写真
「『までいの村』に帰ろう」

6年の歳月はあまりにも長い。
この間にどのようなことがあったのか、外部にいる僕らには、なかなか知ることが難しい。
あれこれ文献や情報に当たってみたものの、その多くは「原発がいかに恐ろしいか」という観点のもので、飯舘村と村民がどのようにこの災害に立ち向かい、先祖伝来のこの土地を守るべく復旧への道筋をつけたのか、というテーマを主軸としたものがなかなか見つからなかった。
やがて、その問いに真っ向から答える良書にたどり着いた。
「『までいの村』に帰ろう」という本で、著者の菅野典雄氏は、1996年の村長選で初当選して以来、2020年10月まで6期務め、震災以降は、全村避難から復興までの陣頭指揮を執った人物だった。
国や県の行政に、村長としてどのように対峙し交渉したか、村民とどう向き合いどのような決断をしてきたのか、その経緯が、この本には詳細に書かれていた。
村を守るリーダーとしての苦悩、思いが赤裸々に語られていて、その全編を通じて伝わってきたものは、平時から非常時に突然切り替わっても、逃げることなく村長としての役割を果たそうとするリーダー像と、「コミュニティの維持」を最優先して考え続けた村への愛情の深さだ。
批判を受けやすい立場にいながらも、「復興は、加害者と被害者の立場を超えた先にある」という揺るがない基本姿勢が、信頼関係を生み、まさに立場を超えた多くの人々を動かしてきたのだろう。

首を長~くして待ってたよの写真首を長~くして待ってたよ

道の脇に黄色い大きな看板があった。
看板には、家族を表すシルエットの横に、「お帰りなさい、首を長~くして待ってたよ」と書かれている。
自治体の境界にある看板は、たいてい「ようこそ」で始まる。
「お帰りなさい」は、長旅を終えて戻ってくる人々に向けた、ねぎらいの言葉なのだ。
僕は、帰国便に乗って到着した成田空港でこの言葉を見つけて、胸が熱くなった覚えがある。
心を温める美しい言葉だ。

必ず帰ってきてねの写真必ず帰ってきてね

看板には現在の放射線量を示す文字盤がついていた。
今の線量は毎時0.19マイクロシーベルト。
「シーベルト」は、放射線が人体に及ぼす影響を含めた線量で、環境省では、除染実施計画を策定する地域の要件を、毎時0.23マイクロシーベルト以上としているから、この地域はその対象から外れていることになる。
いよいよ飯舘村に入るのだ。
曇りのない目で、ありのままをとらえようと、気持ちが引き締まる。
さて、と看板を通り過ぎると、裏側は緑に塗られ、別のメッセージがあった。
「行ってらっしゃい、必ず帰ってきてね」
なんと、直球メッセージ。
心のストライクゾーンに、ぐさっと入った。

遠くに飯舘村の中心部が見えてきた写真遠くに飯舘村の中心部が見えてきた

そのまま街道を40分ほど歩いていくと、やがて、遠くに飯舘村の中心部と思われる景色が見えてきた。
時刻は4:20pm。
今日の日の入りは5時半過ぎだから、あと1時間で到達しなければ暗い中を歩くことになるだろう。
心持ち急ぎ足になる。

帰還者のための公営住宅を建設していた写真帰還者のための公営住宅を建設していた

避難先から帰還する人たちのためのものだろうか、公営住宅の建設現場を見かけた。
あたりに人がいないので、確認のしようがなかったけれど、真新しい家はすでにできあがっているように見える。
もし10年ぶりに戻ってきた家が、住めない状態になっていて、意気消沈している人がいたとしたら、これらの新築の家を見て、いくぶん励まされることだろう。
主のいない家は、たちまち廃墟化するものだ。

綿津見神社、草野郷の発祥の地の写真綿津見神社、草野郷の発祥の地

そのまま歩いていくと、「綿津見神社」という結構立派な神社があった。
鳥居の前に「草野郷発祥之地」と書かれた石碑がある。
その説明では、現在の飯舘村全域は、戦国時代は「草野郷」と呼ばれていて、この綿津見神社は、当初は「苕野(くさの)神社」という「草野」の地名の由来となった神社だということだ。
氏神は「八龍大明神」と呼ばれる海の神様で、降雨をつかさどる。
本来は恵みの雨をもたらす神様なのだけれど、この地に放射能の雨が降ってしまったことには言葉が出ない。
心を鎮めて、ただ手を合わせて立ち去った。

綿津見神社の近くは水鳥の楽園だったの写真綿津見神社の近くは水鳥の楽園だった

綿津見神社の近くには、美しい池があり水鳥がたくさん集まっていた。
白い鳥、黒い鳥、それぞれ同じくらいの数がいる。
しばらく眺めていたいが、いかんせよ、日没が迫っている。
水鳥の楽園を眺めながら通り過ぎる。

いいたて村の道の駅までい館の写真「いいたて村の道の駅までい館」で日が落ち始めた

宿に電話で予約を入れた際に言われたことは、「施設内に食べるところはなく、食べ物も買えない。どこかで夕食を食べてくるか、買ってこなければならない」ということだった。
夕食を買える最も宿から近いところは「道の駅」だ、と教えられた。
「いいたて村の道の駅 までい館」にたどり着く頃には、すでに日没が始まっていた。
「までい」っていったい何だ?
調べたら、こういうことだ。
「までい」とは福島の方言で「真手」と書き、「左右にそろった手」を意味する。
両手で料理を出し、両手でものをいただき、両手でお茶を飲む。
なにをするにも丁寧に、大切に、念入りに、手間暇を惜しまず、心を込めて、つつましく、という意味で、昔から飯舘村の暮らしの中で使われてきた言葉だということだ。
村長だった菅野典雄氏は、復興の先の暮らしのあり方として、「までいライフ」を提唱している。
そこには、大量生産・大量消費を是とする暮らしが、原発事故の遠因になったという反省があって、つつましく丁寧な暮らしに価値を見いだそうとする理念だ。
確かに、丁寧な暮らし方をしていなければ、本当に大事なものは何かということに、思いを巡らすこともないだろう。
「までい」という言葉、覚えておこう。

日がとっぷりと暮れた写真日がとっぷりと暮れた。気持ちが焦る

今晩の夕食と翌朝の朝食、そして明日の道中の食事をごっそり買って、道の駅を出ると、夕闇が迫っていた。
ここであわてて早足になると、足を痛めかねない。
そういう苦い経験はこれまで何度もしてきた。
気持ちは焦るけれど、旅の終盤こそ慎重に足を運ぶ。
パワフルな懐中電灯を持ってきて良かった。
ライトを照らして「宿泊体験館きこり」への道しるべを確かめ、獣たちを追い散らすために灯台から出るビームのようにあたりを照射しながら坂道をのぼっていく。

宿泊体験館きこりの写真「宿泊体験館きこり」に到着

6:30pm、宿にたどり着いた。 相馬中村神社を出発したのが8:20amだったから、所要約10時間、歩数は5万8千歩、距離にして44.8kmだった。
今回は意識して、歩きながらちょこちょこと水分と糖分を補給していたせいか、過去の街道歩きの経験上、最も疲れていない。まだまだ歩けそうだ。

それにしても、宿の灯りというのは、なぜこうも安らぎを与えるのだろう。
玄関の前に緑の送迎バスが停まっていて、ボディに「陽はまた昇る」と書かれていたのが印象的だった。
素朴で誠実な感じの男性スタッフが、静かにチェックインの手続きをしてくれた。
彼も福島県内に一時期避難して帰還したそうだ。
ここには大浴場があって、本来はそこでお湯の中に脚を伸ばしてさっぱりするはずだったけれど、あいにく2月の福島沖の地震でボイラーが故障して、大浴場は使えなくなったということだった。
残念だったけれど、まあ良い。
「までい」だ、までい。つつましく、宿があるありがたみを思う。
案内されたコテージは、すばらしく快適だった。
風呂に浸かり、先ほど買った夕食を食べ、今日辿った道のりを思い浮かべると、それぞれの場面がすでに懐かしく思えてくる。
相馬街道の旅、第一日目、無事にここまでたどり着けて良かった。

先ほどの送迎バスのボディに書かれた「陽はまた昇る」という言葉が気になってインターネットで調べると、YouTube動画が現れた。
避難指示解除がなされた時の式典で、「いいたて村に『陽はまた昇る』宣言」をしていたのだ。

いいたて村に「陽はまた昇る」宣言

(以下、「いいたて村に『陽はまた昇る』宣言」全文)

6年におよぶ避難指示が解除されました
この日を待ちかねて村に帰る人
長い避難生活の影響ですぐには戻れない人
避難先で暮らし村の行く末を見守る人
はじめの一歩はさまざまです
それでも
小さな子どもが自然の中で遊び
年寄りが畑で笑っていて
若者が恋を語る
そんなかつての村の姿を
私たちは一歩一歩取り戻していきます
飯舘村が再び輝くまで
決してあきらめない心で
までいの村にかならず陽はまた昇ります

快適なコテージの写真快適なコテージ、ぐっすり眠る

ベッドに横になったら、いつのまにか朝まで深い眠りについていた。

までいの村に陽はまた昇る写真までいの村に陽はまた昇る

明朝は5:00起床。
朝食を食べて、6:00amに出発する。
昨晩は暗くてよくわからなかったけれど、この宿泊施設は、美しい広葉樹林の中にあり、湖を見下ろす位置にあった。
1泊だけでここを去るのはもったいない景色だ。
山を下りていくと、うっすらと日が昇り、しだいに明るさを増してきた。
どこからともなくラジオ体操の音楽が流れて、こだまのように響きわたっている。
「新しい朝が来た、希望の朝だ」と。

JWA 健康ウォーキング指導士 みちびと マサヲ
筆:渡辺マサヲ
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