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東北復幸漫歩~歩くことで見えるコト~

【東北復幸漫歩 第5回】みちびと紀行~相馬街道を往く 東北復幸漫歩~歩くことで見えるコト~

八木沢峠を越える

「久保の水」がある愛澤家の写真「久保の水」がある愛澤家

「助之観音堂」の道しるべに従って進むと、やがて蔵のある大きな屋敷が見えた。
「久保の水」という良質の井戸があるといわれた愛澤家だ。
この水のことは国会図書館で見つけた史料に記されていて、山の向こう側から八木沢峠を越えてやってきた旅人が、長旅の喉を潤した水であり、八木沢峠をこれから越えていく旅人は、ここで竹筒に水を汲んでいくならわしだったらしい。
昔から数え切れない旅人を助けた恵みの井戸を持つ家、その物語が、この旧家の趣に安らかな懐かしさを添えている。

八木沢峠越えの道の写真
八木沢峠越えの道
山津見神社の境内を通る道の写真山津見神社の境内を通る道

時刻はちょうど正午、いよいよ峠道に入っていく。
入り口に、山の神様、オオヤマツミを祭る「山津見神社」があり、道中の安全を祈った。
ここから峠道の出口「六字名号供養碑」まで12.7kmの道のり。
車も通過できる林道として舗装されていて、歩きやすい。
「峠道」を歩くときは、なぜかいつも、気持ちが高揚する。
これまで歩いてきた道のりとお別れし、次の新しい領域に踏み込んでいく、そんな「区切り」のような感覚が自然にわき上がる。
以前、思想家の中村元の本を読んだ時に、「峠」というのは、日本人にとって特有の精神性が現れている場所で、「峠」に当てる漢字も日本で作られた、ということが書かれてあった。
峠の語原は「手向け(たむけ)」で、旅人が安全を祈って道祖神に手向けた場所を意味したようだ。
道のわきを見上げると、古い祠が「気をつけていけよ」と言っているかのように僕を見下ろしていた。

丘の上に祠が見える写真丘の上に祠が見える
塩の道の案内柱の写真塩の道の案内柱
フタの盗難多発?なんだろう?の写真フタの盗難多発?なんだろう?

林道を進んでいくと、車の図柄の下に「この先通行止」と書かれた案内標識に出会った。
「蓋盗難多発!!パトロール隊出動中」「防犯カメラ作動中」と、なにやら物々しい。
杉木立を両側に見ながらしばらく行って、ようやく先ほどの標識の意味を理解した。
道路を横切る排水溝の鉄製の蓋が、両端とも盗まれていたのだ。
「道の端だったら、車の走行にも支障はあるまい、ほんのちょっと拝借」とでも思っただろうか。
しかし、そういう「出来心」はすぐにエスカレートするものだ。
と思っていたら案の定、その先は、排水溝の蓋全部が盗まれていた。
夜に車が知らずに通ったら、コントロールを失って、崖から転落しかねない。
「通行止め」の標識の原因はここにあったのだ。

両端の鉄の蓋がなくなっていた写真両端の鉄の蓋がなくなっていた
ここは全部の蓋がなくなっていた写真ここは全部の蓋がなくなっていた
鉄はやめてコンクリート製にするらしい写真鉄はやめてコンクリート製にするらしい

調べたら、こういう盗難は全国各地で起こっているようだ。
犯人が捕まったというニュース記事があって、その犯人は蓋を業者に売ってお金にした。「1枚売ると500円程度の収入になった」と語った、とある。
1枚で500円程度、、、。
労力や時間、トラックの燃料代、そして若干の(?)後ろめたさと捕まるリスクを計算したら、果たして本人の利益はあるのだろうか。
公共に迷惑が及び、因果関係さえよくわからないこういう犯罪は、始末が悪い。
つまるところ、そういう出来心を起こさせないようにするしかないのかな。
と、思っていたら、やっぱり。
その先の排水溝は、鉄の蓋の代わりにコンクリート製の蓋に置き換えられていた。
行政も大変だ。

助けの名水の写真助けの名水

時刻はすでに1:00pm、峠道に入って1時間が経つ。
コンビニで買った大福を食べながら歩き続けると、水場に着いた。
「助けの水」だ。
峠道で水場はここ以外には見あたらなかったから、旅人はここで命の水にありつけて、本当に助かっていたのだろう。

そこから先、道の勾配がさらにあがっていく。
山を上っていく蒸気機関車に石炭をどんどん放り込むように、おにぎりや大福や機能性食品を口に入れながら歩く。

太平洋が見えた!の写真太平洋が見えた!

やがて眺望がひらけた。
海だ!太平洋が見える。
今朝は、あの海のそばにいたのだ。
遠くにくっきりと見える水平線に、心が躍った。

道路が崩落の写真道路が崩落、自動車は通過不可能

ニヤニヤしながら歩いていたら、前方の様子を見て、「おぉー!」と思わず声を出してしまった。
その先の道路が崩落していたのだ。
徒歩で行くには問題がなかったけれど、車は絶対に無理だ、通れない。
昔はこういう峠道を、塩荷を背中に積んだ馬と一緒に、危険を冒しながら通ったのだろう。
それほどまでにして運んだ塩だったのだ。

助けの観音堂の写真助けの観音堂
観音堂に奉納された絵馬の写真観音堂に奉納された絵馬

1:30pm、「助けの観音堂」に着いた。
かつては、このお堂の隣に茶屋があって、旅人はここで、一夜を明かすこともあった。
まだ新しい奉納された絵馬に当時の想像画が描かれていて、往時の様子がよみがえってくる。
明治維新後は人馬の往来が途絶え、茶屋も下山してしまうと、観音堂も荒廃、消滅してしまったが、平成元年の12月、林道改修を契機に、後藤建設工業の後藤繁社長が、このお堂を寄進したと説明板にあった。
僕らが生きている「今」は、過去から続いている道の最前だ。
こういうタテ糸のつながりを大事にしている企業人に、心から敬服する。
勧請されている馬頭観音と、後藤社長の好意に対して静かに手を合わせた。
相馬街道最大の難所の代名詞でもあった「助けの観音」には、今もこうして観音堂が建っている。

飯舘村に入った写真飯舘村に入った

その先は峠を越えてゆるやかに下っていく。
「これより先、飯舘村」という標識が現れ、そこから10分ほどで、峠道が終わった。

六字名号供養碑の写真六字名号供養碑

峠道の出口に、「六字名号供養碑」と呼ばれる石碑があって、説明板にはこう書かれていた。

「本村は、山間寒冷地ということもあり、冷害、飢饉の常習地域として幾度かの大凶作を経験している。宝暦5年(1755年)の飢饉は後の天明や天保の飢饉と並んですさまじく、夏は連日、日照度が少なく、北東の風が吹き冷雨の降る日が多かった、と伝えられている。本供養碑は、2年後の宝暦7年(1757年)6月、人々の往来で目立ちやすい街道の分岐点に、餓死者の供養も兼ねて建てられたものとみられます。」

食料生産と物流が発達した現代において、飢餓の恐怖は想像しがたい。
僕らの先人たちが、長いことその恐怖に向き合わざるを得なかったことを思えば、失敗を繰り返しながらも世の中は間違いなく良くはなっている。
ただ、死の恐怖が遠ざかれば遠ざかるほど、「生」に対する感謝や喜びも遠ざかるものなのだ。
この供養碑は、そんな傲慢さを気づかせてくれた。

車道に出た、原町方面(海側)は冬季通行止めの写真車道に出た、原町方面(海側)は冬季通行止め

広い道に出た。けれど、車通りがまったくない。
車道がふさがれていて、「冬季通行止」の標識がある。
となると、この道を通る者は僕だけだ。
だったら、堂々と道の真ん中を歩いていこう!

道の真ん中を歩いていこうの写真道の真ん中を歩いていこう

澄みきった青空に、難所を越えた安堵感も手伝って、そこはかとない「自由」を感じながら、まっすぐに続く道を歩いていった。

JWA 健康ウォーキング指導士 みちびと マサヲ
筆:渡辺マサヲ
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