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【第113回】みちびと紀行~日光街道を往く(浅草~南千住) みちびと紀行 【第113回】

浅草寺・雷門の写真浅草寺・雷門

8:20am、東京観光定番のフォト・スポット、浅草寺の雷門にやってきた。
先ほどから、外国人たちが入れ替わり立ち替わり雷門の前でポーズを決め、写真を撮り続けている。
こちらが隙をみて写真を撮ろうと構えると、また入る。
気を揉んでいたところで、ハッとした。
思えば僕も、初めての海外旅行では名所をくまなく巡り、彼らのようにポーズを決め写真を撮っていた。
とうとうこの有名な場所に来た!
そんな純粋な感動を、いつまでも持ち続けたいと思う。
松尾芭蕉も、各地の名所や歌枕をめざして旅のルートを決め、感動を詠んだのだから。
良い旅を!
心の中で彼らにそう伝えた。

仲見世通りの写真仲見世通り
仲見世通りの裏道の写真仲見世通りの裏道

まだ朝早いのか、仲見世通りのお店のシャッターはほとんどが閉まり、一軒だけ開いていた人形焼のお店で、カタカタ、カッチャンと菓子を焼き上げる機械がまわっている。
けれど、さすがは浅草寺。閑散としているわけではなく、続々と人がやって来る。
これが裏通りにまわると、がらりと趣は変わり、静かな日常風景が展開されている。
商品の搬入を済ませた業者さんと、その労をねぎらう店主さん。
挨拶がわりに景気について話し、お互いの健康を気遣う地元の客と店員さん。
まるで舞台裏のような、素顔の時間が淡々と流れていた。

浅草寺から二天門の方角を望む写真浅草寺から二天門の方角を望む

浅草寺はなぜ今日まで大切にされ、これほど多くの人びとを集めているのだろう。
無数のお寺がある東京で、浅草寺は群を抜いている。
時の為政者たちから保護されてきたことはさておき、庶民からの絶大な人気が今日まで続いているのはなぜか。
本堂に向かいながらそんなことを考えていたら、ある既視感におそわれた。
確か、長野の善光寺を歩いたときも、同じことを考えていた。

参照:【第102回】みちびと紀行

「霊験あらたか」
これが、ふたつの寺に共通するキャッチフレーズ。
そして、その信心を高める極め手は、「秘仏にすること」だと気づいた。
秘すれば花。
目に見えないことで観念をめぐらせ、最上の価値を生む。
見えないからこそ「有り難い」のだ。

浅草神社の写真浅草神社

浅草寺の隣には、例大祭「三社祭」で名高い「浅草神社」がある。
浅草観音の像をすくい上げた桧前浜成、竹成、そしてそれが聖観音だと認め、浅草寺を建立した土地の長・土師真中知(はじのまつち)、この三人が郷土神の「三社様」として祀られている。
浅草神社の宮司は、代々「土師」姓を名乗っているらしい。
そういえば、以前鎌倉街道を歩いたとき、利根川の支流・神流川のほとりの土師神社(どしじんじゃ)を訪れ、付近に埴輪を製造した窯の跡があったことを思い出した。

参照:【第78回】みちびと紀行

土師氏は、天皇家の葬礼や古墳築造、埴輪の製造と関わりの深い一族なのだ。

履物問屋街発祥の碑の写真履物問屋街発祥の碑

二天門から浅草寺を出て、隅田川に向かっていくと、途中の花川戸公園に、「履物問屋街発祥」の碑があった。
このあたりには、江戸時代から多くの履物の店が集まっていたそうだ。
ちょうどこの北側にある猿若町には、「中村座」など幕府公認の芝居小屋があり、集客には事欠かなかったこと。
そして、北関東から鼻緒に使う麻ひもが舟で運ばれ、ここで陸揚げされていたことで、地の利があったのだ。
芝居見物に訪れた江戸の恋人たちが、ここで店の陳列を眺めながら綺麗な履物を買い求める光景を、ほのぼのと想像した。

言問橋のたもとにある東京大空襲の慰霊碑の写真言問橋のたもとにある東京大空襲の慰霊碑

と、言問橋のたもとに来て、気分がたちまちトーンダウンする。

「あ、東京大空襲 朋よやすらかに」

東京大空襲の慰霊碑が目の前に現れた。
東京は、昭和19(1944)年11月24日から昭和20(1945)年8月15日まで、焼夷弾による無差別爆撃を106回にわたって受け、被災者は約310万人、死者は11万5千人以上を数えた。
なかでも、昭和20(1945)年3月10日の空襲はその最大のもので、このときだけで罹災者は100万人を超えたらしい。
この碑がある場所は、そのときの死者を仮埋葬したところだという。
浅草の地はずっとそこにあって動かないけれど、その舞台で繰り広げられる人間模様、喜びと悲しみを、じっと見守ってきたのだ。

待乳山聖天の本堂へと石段を登っていく写真待乳山聖天の本堂へと石段を登っていく

日光街道は、言問橋から南千住駅をめざして北上していく。
右手のビルの向こう、こんもりとした小山の上には、「待乳山聖天」というお寺がある。
古代、「石浜湊」に向かう舟は、この山を目印に航行したという。
お寺の名が「まつちやましょうでん」と読むのだと知り、「三社様」のひとり、土師真中知(はじのまつち)を連想した。
だとすれば、広大な関東平野の河口部にぽつんとあるこの山は、土師氏の築いた古墳なのかもしれない。
あとで調べたら、学界での評価はさておき、やはりそのような説が根強くあるらしい。
江戸期よりずっと以前の東京の歴史は、まだまだ謎めいている。

東都名所 真土山之図の写真東都名所 真土山之図

待乳山聖天の本堂の写真待乳山聖天の本堂
さくらレールを使って待乳山を下山の写真さくらレールを使って待乳山を下山
今戸橋、隅田川から吉原へと向かう入口だった写真今戸橋、隅田川から吉原へと向かう入口だった

待乳山のわきには、昭和の初め頃まで、隅田川から吉原遊廓の入り口・「大門」へと向かう「山谷堀」という水路があった。
この水路を、猪牙舟(ちょきぶね)という小舟で遊廓通いするのが、最も優雅で粋だとされたらしい。
吉原の歴史は、家康が江戸の町を建設する頃から始まる。
関東一円から人足たちが集まり、なおかつ、戦乱の収束で浪人たちが職を求めて集まったことから、江戸の人口は圧倒的に男性の比率が高くなった。
放っておけば、強姦など性犯罪が増すおそれがあったことから、幕府は、駿府城下にあった遊廓の一部を江戸に移した。これが吉原の始まりだ。

名所江戸百景 淺草川首尾の松御厨河岸の写真名所江戸百景 淺草川首尾の松御厨河岸

当初は、日本橋・人形町に吉原があった。「元吉原」だ。
これが、江戸の拡大につれて大名屋敷と隣接するようになったことで、幕府は、明暦2(1656)年の10月、吉原の移転を命じた。
吉原側は反対し幕府に嘆願したが、聞き入れられず、その直後、明暦3(1657)年1月18日に「明暦の大火」が起こり、吉原は焼失してしまった。
この浅草界隈にあった吉原は、その後、新たな土地で再建された「新吉原」というわけだ。
吉原遊廓の敷地は約2万坪、最盛期には2千人の遊女がいたという。
呉服問屋のある日本橋、芝居小屋がある猿若町と並んで、「一日千両落ちる場所」と言われていたらしい。

猪牙船の模型の写真猪牙船の模型

山谷堀公園から見えるスカイツリーの写真山谷堀公園から見えるスカイツリー
山谷方面へと向かう写真山谷方面へと向かう

遊廓通いの小舟が行き交った山谷堀は昭和になって埋め立てられ、今は700mにわたって公園になっている。
この公園には、20年前、2003年から2004年にかけて、たびたび来たことがある。
ホームレスの夜回りや炊き出しのボランティアに参加したことがあったからだ。
ほんの短期間のことだったけれど、それは十分に刺激的な体験だった。
深く心に残ったことは、彼らの暮らしの悲惨さや、理不尽に対する怒りというよりも、人はいともたやすく路上生活に転落するのだという、その運命のはかなさだった。
今の自分があるのは、幸運の連鎖によるもの。
いつその鎖が切れるとも知れない。
公園で食べ物を配りながら、そう自分を戒めていた。

ドヤ街と呼ばれていたところの写真ドヤ街と呼ばれていたところ

山谷の町が近づいてきた。
20年前の記憶が蘇り、緊張モードになる。
アーケードがあったはずの商店街はどこだったろうか。
日本で一番の売り上げを誇ると聞かされていた酒屋の前で、深夜にホームレスのおっさんから怒声混じりで延々と説教されたことがあった。
今は街が落ち着いた。というよりも、閑散としている。
ホームレスの全国人数は、2003年の25,296人以降徐々に減少し、2022年には、3,824人にまで減った。

参照:厚労省「ホームレスの実態に関する全国調査の結果(PDF)

ドヤ街の宿泊施設の多くは、メインの顧客を外国人観光客に切り替え、ここは今や、東京を目指すバックパッカーの「聖地」になっているらしい。

手荷物預り所、月極めロッカーもある写真手荷物預り所、月極めロッカーもある
ホテルの料金表は英文併記、クレジットもOKの写真ホテルの料金表は英文併記、クレジットもOK
泪橋ホールの写真泪橋ホール

日光街道沿いにあるこの山谷は、江戸期に木賃宿が集まってできた町だ。
付近には、吉原遊廓や小塚原の刑場があり、「訳あり」の人々がここに寝泊まりしたようだ。
明治期になると、地方の農村から上京した人々が上野からこの場所へと流れ、関東大震災のときには、罹災者のための大テント村がここに出現した。
そして戦後も、行き場を失った人々を収容するバラックがここに建ち並び、やがて民間に払い下げられ、山谷の簡易旅館街となる。
この街はずっと、漂流民たちの避難所としての宿命を負ってきたのだ。

「あしたはきっと 何かある あしたは どっちだ」

とっくの昔に暗渠となり、川の見えない泪橋交差点。
南千住駅の歩道橋から振り返り、山谷の街を眺めながら、「あしたのジョー」の主題歌を思い出していた。

泪橋交差点の写真泪橋交差点
南千住駅歩道橋から山谷の街を望む写真南千住駅歩道橋から山谷の街を望む
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