【第103回】みちびと紀行~北国街道を往く(牟礼、古間、柏原) みちびと紀行 【第103回】
三本松の峠から先、県道60号線を連なって走る貨物トラックを横目に、北国街道は右へと分かれ、往時の面影が残る静かな道となっていく。
大きなエノキの木が残る「四ツ屋の一里塚」から、見晴らしのよい坂道を下っていくと、北しなの線の向こうに、牟礼(むれ)の宿場町が現れた。
飯綱町(いいづなまち)牟礼、静かな町だ。
かつては商店街だったはずの通りは、店がまばらだ。
外灯の形がシャレていて、よく見ると、ヤツデの葉を持った天狗がちょこんと乗っかっている。
この辺りは、「飯縄(いづな・いいづな)権現」というカラス天狗ゆかりの土地らしい。
この町から西方に望む戸隠連峰のひとつ、飯縄山(飯綱山)は、修験道の霊山だ。
そこを住処(?)とする飯縄権現は、戦勝の神として、足利義満や上杉謙信など、中世の武将からの信仰を集めていた。
謙信の兜には、飯縄権現の意匠がほどこされている。
この天狗、どこかで見た覚えがあるな。
そう思って調べたら、高尾山薬王院に祀られている天狗とは、この飯縄権現のことだった。
高尾山の中興の祖・俊源が、夢で見た姿が、このカラス天狗だったという。
遠くの旅先で、近所の人に出会ったような気がしてにんまりした。
街道は、牟礼宿の端で、再び上り坂になった。ぐんぐん登っていく。
坂の途中に、「金附場(かなつけば)」という、佐渡島の金を江戸へと輸送するための施設の跡があった。
野尻湖畔の「御金蔵」で一夜を明かした金は、朝のうちにこの場所へと運ばれ、新しい馬に付け替えられ後、その日の昼までに善光寺宿へ継ぎ送りされたということだ。
この街道は、はるか佐渡島の対岸、出雲崎まで続いている。
北国街道が「金の道」でもあることに、改めて気づかされた。
古い石碑を見つけた。
加賀藩前田家が建てたもので、ここがちょうど江戸と金沢の中間地点にあたるということだ。
金沢〜江戸間の距離は、およそ480km、所要日数は12泊13日。
加賀藩では、参勤交代の行列がこの場所を通過したとき、金沢城と江戸屋敷に早飛脚を出して、藩主の無事を知らせたらしい。
はるばるここまで来てもまだ半分、金沢は遠い。
約2千人いたという前田家の行列衆は、そう言ってため息を漏らしただろうか。
あと半分、もうすぐだ、頑張ろう!
あるいはそう言って、仲間と自分を奮い立たせただろうか。
まだ新しい道標が、親切に街道の道筋を教えてくれる。
北しなの線を越え、さらにぐんぐん登っていくと、やがて小玉古道と呼ばれる江戸期の道と、それより新しい道とに分岐した。
当然、古い方の道を行く。やはり古道の方が趣があるというものだ。
と、進んでみたら、趣があり過ぎた。
深い森の中から、獣が出てきそうだ。
一茶少年を三本松の峠まで見送った父親は、この辺りの道のことが気がかりだったのだろう。
江戸に出ていく息子を守りながら進む、父親の姿が沁みてくる。
僕は独り、熊に出会わぬよう、口笛を吹きながら進んでいく。
30分ほど歩いて、ようやく視界が開けた。
蕎麦畑や火の見櫓に、人間の営みを見てホッとする。
小古間(こふるま)集落からは、辺り一面、黄色い稲穂が広がった。
青空には、飛行機の道筋。
雲間の十字路。
古間(ふるま)宿に入った。
牟礼よりもさらに寂しい町だ。
シャレた外灯がここにもある。
半月状の意匠はいったい何を表しているのだろう。
謎は、この後で寄った「一茶記念館」の民俗資料棟で解けた。
外灯のその形は、展示品の中にあった「信州鎌」そのもの。
古間宿の特産品だった。
古間宿と次の柏原(かしわばら)宿とは、約700mしか離れていない。
踏切を越え、川を渡ると、柏原宿はすぐだ。
古間と柏原は合宿(あいじゅく)で、月の前半を柏原、後半を古間で、人馬の継ぎ立てを行なっていた。
4:00pm、柏原宿に入った。
ここは、江戸時代後期の俳人、小林一茶の故郷だ。
農家の家に生まれた一茶は、3歳のときに母と死別。
8歳で継母を迎えたが、折り合いが悪く、15歳の春、一茶はひとり江戸へと奉公に出た。
一茶が自らそれを望んだのか、追い出されたのか、そのあたりはわからない。
実学重視の信州の庶民教育が、読み・書き・そろばんという独り立ちする術を一茶にも身につけさせ、奉公先から重宝されたのだろう。
江戸に出た一茶は、奉公先を転々としながら、俳諧の世界に目覚め、20代で諸国行脚。
各地で創作活動を行い、しだいに名声を得、29歳になって14年ぶりに故郷に帰った。
一茶の生家には、そう刻まれた句碑が残されている。
故郷に錦を飾った彼の、控えめながらも晴れ晴れした気持ちが込められているようだ。
その後一茶は、さらに諸国行脚を続け、10年後39歳になって再び柏原に戻り、病に倒れた父の看病をする。
父は、終焉間際に、一茶と弟で、田畑と家屋敷を半分ずつ分けるようにと遺言を残した。
10年以上にわたって続く、継母・弟との相続争いは、こうして始まる。
50歳の冬、故郷に戻った一茶は、その翌年までに弟たちと和解した。
その後結婚して家族を持ったが、妻や子たちとも、ことごとく死別してしまう。
文政10 (1827) 年6月、柏原宿の大半を焼く大火に遭い、母屋を失った一茶は、旧暦11月9日、土蔵に移り住み、その10日後、蔵の中で65歳の生涯を閉じた。
一茶の命日、旧暦の11月19日は、今の暦でいえば1月初旬に当たるという。
一茶、50歳のときに作られたこの句は、5尺(約151cm) も積もるほどの雪の中で、人生を終えることを予言しているようだった。
「一茶というと、何かと相続争いのことばかり言われるんですが、晩年は弟たちともうまくやってたと思いますよ。」
一茶を慕う地元の人が建てたお堂「俳諧寺」で、掃き掃除していたその手を止め、年配の男性がお話をしてくれた。
「この近くの神社に一茶の句碑が集められているんです。昔は街道沿いにありましてね、幕府を讃えるような句があったものだから、明治天皇の御巡幸の際に御目に触れないよう林の中に移されたそうです。その句碑を建てるのに、一茶の弟が熱心に駆け回って資金集めをしたんですよ。」
救われた気がした。
家庭運には恵まれなかったのだと、一茶のことを哀れんだ自分の傲慢さを恥じた。
弱者や小動物に優しい眼差しを向けた一茶は、たとえ相続のいざこざがあろうとも、人間味のある愛すべき人だったに違いない。
小丸山公園にある一茶のお墓にお参りする。
「小林家一族の墓」
小林家の家族として、一茶が仲良く納まっていた。
時刻は4:40pm。
ああ、閉まってしまう。せめてひと目だけでも・・・
と、5時閉館間近の「一茶記念館」に駆け込んだ。
「もう残り時間少ないですけど、いいんですか?」
受付の女性が、同情するように手続きを始めると、事情を察した館長さんが出てきた。
「私は閉館後も30分くらい残っていますので、ごゆっくり見ていってください」と、ありがたいお言葉。
といっても、迷惑はかけられない。急いで館内を回り出した。
これは本当に、短時間では回りきれないな。
記念館は、小林一茶への愛情に満ち溢れている。
彼の生涯、作品、一茶を育んだ江戸後期の社会事情と柏原の土地柄、それら全てが丁寧にわかりやすく展示されていた。
一つひとつ丁寧に見ていきたいけれど、それではいくら時間があっても足りない。
僕はすでに、一茶ファンになっている。
いつかまたここに来て、そのときにゆっくり見ようと決めた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、きっとまた来ます。」
受付の女性と館長さんにお礼を言って、記念館を後にした。
気づくと、もうだいぶ日が傾いている。
今日のお宿は、野尻湖畔の旅館。
暗くなる前にたどり着けるだろうか。
一茶の句は、どれも目線が低い。
野辺の風景を目に焼き付けながら、ひとり夕暮れの道を歩いていった。