【第100回】みちびと紀行~北国街道を往く(戸倉、矢代) みちびと紀行 【第100回】
*本編は、第1回から第9回まで連載した「北国街道を往く~シーズン1」の続編です。「シーズン2」としてお楽しみください。
9月12日、月曜日、8:25am、しなの鉄道・上田駅から、長野行き電車が発車した。
カタンコトン、軽やかなリズムに乗せて、見覚えのある風景が車窓を流れていく。
乗客の大半、高校生たちは、男子・女子、見事に分かれ、おとなしく電車に揺られていた。
平然を装いながら、そわそわとお互いを意識する、淡い思春期の光景が微笑ましい。
途中駅で彼らを降ろすと、電車はやがて、戸倉駅に到着した。
前回、北国街道を歩いたのは2020年の夏。
追分宿から戸倉宿まで、8月3日から6日の3泊4日の行程で、この戸倉駅にゴールした。
( 参照:【第9回】みちびと紀行 )
北国街道はこの先、千曲川を越え、善光寺、野尻湖を経由し、妙高山の東をすり抜け、日本海へと続いていく。
今回は、ここから日本海まで、4泊5日の行程で歩こうというわけだ。
そうそうこの感じ。
昭和を思わせる駅や街のたたずまいと清々しい空気感、現代日本の青春期とでも言うのだろうか、あの時代の懐かしさが漂っている。
胸のどこかが熱くなる、そんな「郷愁」を呼び起こす道、それが北国街道だ。
水路に沿って街道を歩いていくと、「信濃宮御古蹟迄二町」という石碑に出くわした。
「信濃宮」とは、後醍醐天皇の皇子、宗良親王のことで、ここから二町(約200m)離れた山の麓にある「柏王(かいおう)神社」が、ゆかりの場所らしい。
宗良親王といえば、半年ほど前、鎌倉街道を歩いたときに通った「笛吹峠」の陣中で、笛を吹いたとされる南朝方の将軍だ。
( 参照:【第84回】みちびと紀行 )
少しの縁を感じて、その場所まで寄り道することにした。
一直線に伸びる道を進んでいくと、木肌を露わにしたなんとも味のある神社が現れた。
説明板によれば、南朝軍を率いて信濃・越後を転戦していた宗良親王は、ここで病にかかり、ご自身の髻(もとどり、髪を頭の上に束ねた部分)を切って供物とし、薬師如来に祈ったところ、全快したという。
なるほど、髪の毛には「霊力」があると聞いたことがあったが、そういうことなのか。
確か、源頼朝も、守護仏を自身の髻の中に入れて持っていたのではなかったか。
烏帽子をつけないのは、パンツを履いていないくらいに恥ずかしいことと言われたり、武士のちょんまげを落とすことはこの上ない恥だとされたり、今ひとつピンと来ないことがあったが、束ねた髪には霊魂が宿ると考えてみれば理解できる。
「髻(もとどり)」の意義に改めて興味を抱いた。
寂蒔(じゃくまく)という集落に入った。
松尾芭蕉の句碑が立っている。
この場所で詠んだ句かどうかは定かではないが、この辺りはどうやら月の名所のようだ。
「更科(さらしな)の月」「姨捨(おばすて)の月」、あるいは、棚田の水面に映る様子を「田毎(たごと)の月」とか呼んで、近江の石山寺、土佐の桂浜と並んで、「日本三大名月の里」と呼ばれるらしい。
芭蕉は「更科紀行」の旅で、まさにこの地で名月を見ることを目的に、中山道から善光寺まで寄り道をして、その後江戸に向かっている。
何故この辺りが「名月の里」と呼ばれるのか。
歩きながら考えていたら、あるヒントが浮かんだ。
前回の北国街道の旅で、小諸の「ジオヒルズワイナリー」でお話をうかがったとき、確か、この地域は雨や湿気が少ないのでワイン作りに適している、と言っていた。
おそらく同じ理由で、乾燥した空気の中で月が冴え冴えとその輪郭を見せ、優しく下界を照らすのだろう。
月明かり、お酒、温泉、川景色・・・
と、今の欲望を五・七・五で詠んでみる。
今日の宿は長野駅前にとってしまったけれど、せめて名月が拝めたらいいな。
( 参照:【第2回】みちびと紀行 )
時刻は11:00am、矢代宿に入った。
何故そうなのかは知らないが、宿場の名は「矢代」で、地域名は「屋代」という。
ここは「矢代の渡し」を控えた場所で、千曲川の氾濫原に位置するとのこと。
町の中心の「須須岐水(すすきみず)神社」では、オオクニヌシ、イクムスビ、コトシロヌシという三神を主祭神とするほか、ミズハノメ、トヨタマヒメ、ハヤアキツヒコ、ハヤアキツヒメなど、水に結びつく神様を一緒に祀っている。
しばらくぶらりと町歩きをする。
町の入口の大きな「筆塚」や、明治の建築物「屋代小学校旧本館」は、長野が伝統的に教育県であることを思い起こさせた。
なぜ長野が教育県なのか、その理由を説明した資料を見たことはないが、寺子屋の数も師匠の数も、全国で最多だったようだ。
特徴としては、信濃では寺子屋の師匠のうち「農民師匠」が56%を占めていたらしい。
(参照:「街道の日本史・北国街道」(吉川弘文館)p.206)
察するに、この地域が、東西、そして日本海と太平洋を結ぶ交通の要だったことに加え、戦国武将たちの争奪戦の舞台だったことから、庶民は、サバイバル術として「情報の重要性」を幼少の頃から叩き込まれていたのではないかと思う。
そういえば、この地域を治めた戦国武将は誰だったのだろうと調べていたら、「屋代城跡」という場所があることに気づき、そこまで行って確かめことにした。
「屋代城跡北側登城口」から続く山道は、ちょっとしたハイキングコースになっていて、10分ほどで屋代神社へ、さらに10分歩いて、山頂の屋代城跡に着いた。
説明板によれば、この城は、15世紀後半の応仁・文明の乱の頃、村上氏の代官だった屋代氏が築城し、その後、村上義清が劣勢となると、屋代氏は武田方へと寝返り、その後も上杉氏、徳川氏と、次々に鞍替えしたという。
こういう情勢判断も、すぐれた情報収集と分析あってこそだと、ひとり納得した。
誰もいない、誰も来ない。
城跡の広場で、しばらく水分をとりながら休憩した。
気温は29℃、夏の盛りのような太陽が照りつけて、汗が流れ落ちる。
台風ラッシュの間隙を縫って決行した今回の歩き旅、強力な太平洋高気圧が台風をはじき出し、日本列島を守ってくれた。
さて、この道はどこに続くのだろう。
登ってきた道と反対側の「南側登城口」へ降りると、「森将軍塚古墳」という道しるべがある。
行ってみるか。
ちょうど向こうから年配の男性が歩いてきた。
「この道は、森将軍塚古墳に行きますか?」
「ええ、ここからすぐですよ。古墳だけに5分で着きますわ。」
ここは関西か。
うまい返しができなかったが、和やかな気分で坂道を登っていくと、あっと息をのむ迫力で前方後円墳が現れた。
でかい!
レンガ色の円筒形埴輪にふち取られ、全長100mの前方後円墳が出現した。
大和朝廷に服した、「科野(しなの)のクニ」の王の墓ということだ。
かつてはこの屋代が、シナノの国の中心だったのだ。
中山道は、都から東進するにつれ、ミノ(美濃)、シナノ(科野または信濃)、ケノ(毛野)と土地の名が変わっていく。
「ノ」は「野」、「広い平地」だとして、「シナ」は古語では「段、階級」を意味するらしい。
確かにこの古墳の上から善光寺平を見渡せば、広い平地のほかに、山裾には段々になった土地が見える。
美しい国だ。
時の経つのを忘れて、眼下の風景に見入っていた。
さあ、そろそろ北国街道に戻ろう。
ほんの少しの寄り道のつもりが、屋代城跡に続いて森将軍塚古墳と、ちょっとした山登りになってしまった。
急に空腹を覚えて、すたこら降りていく。
時刻は12:50pm、果たして長野駅前のホテルまで、日没前にたどり着けるだろうか。
まあ、なんとかなるさ。それよりも、ごはん、ごはん。
グーグー鳴るお腹をおさえながら、北国街道へと歩いていった。