【第89回】みちびと紀行~鎌倉街道を往く(多摩川を越えて) みちびと紀行 【第89回】
4月25日(月)、7:20am。
新宿発の京王線の電車は、府中に着いた。
鎌倉街道と甲州街道が交差するこの町には、一年前の甲州街道歩きの旅でも訪れた。
こずえ高く葉を繁らせたケヤキの並木道が、駅前を落ち着きのあるお洒落な街並みにしている。
新緑がまぶしい。
さあ、鎌倉街道歩き旅・第7日目を始めよう。
並木の参道を、「大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)」社殿へと歩いていく。
通りには、ケヤキの苗木千本を寄進した源義家の像が、以前と同じく凛々しい若武者ぶりで仁王立ちしている。
この像がここにある意味を、鎌倉街道を南下してきた今となって、ようやく理解した。
義家は、武蔵の国じゅうの主要な六柱の神様(六社)を祀ったこの大國魂神社にまず参拝し、ここから鎌倉街道(当時は「武蔵路」)を北上し、奥州へと軍を進めていったのだ。
京都の石清水八幡宮で元服し、「八幡太郎」の異名を持つ義家の進軍した道すじには、八幡神を祀った多くの社が誕生した。
あたかも、自分こそが軍神・八幡神の化身で、この東国の覇者であろうとしたかのように。
「前九年の役」と「後三年の役」によって、東国を平定した義家は、河内源氏の棟梁として、東国武士団を束ねる地位を確立した。
そして、源頼朝も木曽義仲も、足利尊氏、新田義貞も、皆この義家の子孫として、その後の歴史を動かしていくのだ。
武蔵総社・大國魂神社に参拝する。
この辺りに住む人々の日課になっているのだろうか、仕事に向かう人々が次々にやってきては深く頭を下げ、参道を通って駅へと歩いていく。
パン!パン!
柏手の音が朝の境内に響きわたり、身がキリリと引き締まった。
「武蔵国府跡」の碑は、大國魂神社の境内のものを含めて3ヵ所ある。
「国(衛)(こくが)」という国司の役所は大國魂神社の位置にあったので、ここに2カ所。
少し離れたJR府中本町駅の東側には、国司の住む館があったので、ここに残りの一つがある。
国司の館跡は、昔から富士山が見える景勝地だったようで、江戸初期には、徳川家康・秀忠・家光と三代にわたって、武蔵野で鷹狩を行った際の休憩御殿があった。
近くにあった庭園の美しい善明寺の辺りを歩いていたら、富士山がJRの線路の向こうに姿を現した。
西暦700年頃の武蔵国の国司も、1600年頃の家康たちも、同じようにこの富士山を眺めていたのか。
しばらく立ち止まり、真っ白な雪を被った姿を見ていた。
分倍河原(ぶばいがわら)の古戦場へと歩いていく。
分倍河原駅前のロータリーには、馬に乗った新田義貞の像があった。
勇ましい姿をしてはいるが、僕には初老の男が疲労困憊しながら奮闘しているように見えた。
義貞が歴史の表舞台に登場するのは37年の生涯の最期わずか6年。
もう少し若武者の姿であれば、まだ救われたような気がする。
自らが倒幕の火蓋を切ったとはいえ、背負ったものがあまりにも大きすぎたのか。
あるいは、権謀術数に長けたくせ者たちに囲まれて、自身が早急に老成する必要があったのか。
彼の姿が痛々しく映った。
分倍河原古戦場跡に着いた。
分倍河原の戦いは、義貞軍と幕府軍の勝敗を事実上決する大きな戦いだった。
この戦いで幕府側は大敗を喫し、その後は迫り来る義貞軍に対して鎌倉の守りを固める防戦に終始することとなる。
5月12日に行われた久米川合戦で勝利を得た義貞軍は、5月15日には分倍河原に進出し、合戦となった。
が、ここに来て幕府軍に新手の大軍が加わり、義貞軍は大敗。
手勢わずか600騎を率いて血路を開き、堀兼(現・狭山市)へと敗走した。
もし幕府側がここで追討軍を差し向けていたら、義貞軍は終わりだったと言われている。
しかし、敗走した日の晩、三浦義勝などの相模武士の援軍が義貞の下に馳せ参じ、形勢逆転。
5月16日には戦勝に酔いしれていた幕府軍を破った。
「太平記」によれば、義貞軍にはその後次々に援軍が加わり、約60万の大軍勢になったという。
誇張が多いと言われる「太平記」のことだから、たぶん一桁違うとは思うものの、この合戦で帰趨を決したのは確かだろう。
現在の古戦場跡は、そんな激戦が行われたとは思えぬほど平和に満ちている。
水鳥たちが優雅に泳ぐ水路には木々の新緑が映り込み、あたりはすっかり初夏の風景となっていた。
京王線・中河原駅を過ぎ、関戸橋で多摩川を渡っていく。
高崎から鎌倉街道を南下してここまで、いくつの川を越えてきただろう。
烏川、鏑川、神流川、小山川、荒川、都幾川、高麗川、入間川。
それぞれの川の風景を思い出す。
鎌倉街道を往来する旅人にとって、川は通行の障害でもあり、人や馬の飲み水を得る休息場でもあったのだ。
川向こうの聖蹟桜ヶ丘では、おそらくタワーマンションなのだろう、建設中の高いビルがそびえている。
この街は、ジブリのアニメ映画「耳をすませば」の舞台となった。
多摩川の自然のせいだろうか、街全体がどことなく明るく、キラキラして見える。
「カントリーロード この道 ずっといけば
あの街に 続いてる 気がする カントリーロード」
頭の中で、映画の主題歌が流れていた。
鎌倉街道は、川崎街道と交差し、多摩丘陵をゆるやかに登っていく。
お地蔵様の横に「関戸古戦場跡」の案内柱が、続いて「霞ノ関南木戸柵跡」の碑が現れた。
この辺りは、多摩川を自然の要害とした、鎌倉幕府の軍事的な要衝だったのだ。
分倍河原の戦いに敗れた幕府軍は、ここで防衛戦を行ったが、勢い増す新田義貞軍に撃破され、一路鎌倉へと敗走した。
義貞軍はここで一日逗留し、あとは怒濤のごとく、鎌倉街道を一挙に南下していった。
鎌倉時代の終わりを辿るように、僕もこの道をひたすら歩いていく。
「鎌倉古道」と杉の板に書かれた道しるべをちらほらと見かけるようになった。
「歴史古街道団」という団体が立てたものらしく、この先の道ではずいぶんと助けられた。
多摩丘陵に入ると、鎌倉街道は、本来の独特なカーブを描くことをやめ、ニュータウンの整備された直線的な道か、野山の古道かのいずれかになる。
この道で大丈夫なのだろうか?
そんな不安をこの杉板の道しるべが打ち消してくれた。
この道を歩いた先人がいたと確認することが、ひとりで歩く孤独をどれほど吹き飛ばしてくれるかしれない。
「こちらは多摩中央警察です。このあたりで親族を名乗るオレオレ詐偽が多発しています。十分に注意しましょう。」
ニュータウンの貝取大通りを歩いていたら、パトカーが拡声器でアナウンスしながら通り過ぎていった。
オレオレ詐偽がいつまで経ってもなくならないのはなぜだろう。本当に不思議だ。
多摩ニュータウンは、東西約15km、南北約5kmの範囲で、多摩丘陵に広がっている。
大阪の千里ニュータウン、愛知の高蔵寺ニュータウン、横浜の港北ニュータウン、そして千葉ニュータウンと並んで、日本最大規模の新興住宅地だ。
高度経済成長期の東京の深刻な住宅不足を背景に、昭和41(1966)年7月から開発が始まり、昭和46(1971)年、第1次の入居者がやってきた。
この街に移り住んだのは、当時30~40代の子育て世代が大半で、しかも短期間でいっせいにやって来たため、住民の年齢構成が偏っている。
ここで育った子ども世代も、成人後は親元に戻ることはなく、親世代はそのまま住み続けている。
そうした核家族化も加わり、街の人口は急速に高齢化し、活気も失われているという。
ただ、考えようによっては、シニア世代は若者よりも購買力が高く、その年齢層がかたまりで暮らしているわけだから、やれそうな事業がまだまだあるにちがいない。
オレオレ詐偽の連中も悪知恵を働かせるのはやめにして、その抜きん出た頭脳で、胸を張って言える新たなビジネスを始めたらいい。
ニュータウンの単調な道が終わり、明大中野南野グラウンドの脇から一本杉通りへ、さらにその先、恵泉女学園大学の脇道へと、本来のカーブを描きながら鎌倉街道が続いていく。
おや?ここに古道らしきものがある。
なにかワクワクする予感。
ルイス・キャロルの小説のように、多摩丘陵のワンダーランドへと、足を踏み出していった。