【第76回】みちびと紀行~鎌倉街道を往く(いざ鎌倉) みちびと紀行 【第76回】
高崎城址から歩いて4分、「龍廣寺(りゅうこうじ)」というお寺に行く。
徳川四天王の一人、井伊直政が、「和田」を所領として与えられた際に、地名を改めようとこのお寺の和尚に相談したところ、「高崎」に決まったということだ。
山門をくぐると、「元ロシア人兵士之墓」と書かれた案内標識がある。
墓地の奥に進んでいくと、表面に十字架が刻まれた石棺が3つ並んでいた。
日露戦争で捕虜となり、高崎で収容されたロシア兵の墓だった。
日本各地で収容された捕虜のうち、五百数十名がこの高崎に来たらしい。
傷病兵だった20代の3人は、療養の甲斐もなく亡くなってしまったので、日本陸軍の墓地があったこの寺に葬られたとのことだ。
高崎は、陸軍歩兵第十五連隊の町として知られている。
部隊は、群馬・埼玉・長野県出身者を中心に編成され、日露戦争では、旅順などの激戦地に派遣され、568人が戦死した。
その第十五連隊の傷病兵と同じ病院に、この捕虜となったロシア人も入院し、亡くなった218人の日本兵と同じ墓地に、このロシア兵も眠っている。
人間は、亡くなった時点でノー・サイド。
少なくとも、元来、日本ではそういうルールなのだ。
しかも、第二次大戦中、この寺では、ロシア兵の墓が破壊されることがないよう、一時地下に埋めて隠された。
死者を貶めてはならない。
そんな紳士的でフェアな心根を、この墓に見た。
さて、鎌倉街道はどの道なのか?
龍廣寺を出ると、早くも迷った。
まだ歩き始めたばかりで、鎌倉街道の特徴がつかめていない。
まあ、鎌倉街道はひとつではなかったのだからと、おおらかに考えることにした。
とりあえず、源頼朝の馬が驚いて蹴り上げたという伝承が残る、「化石(ばけいし)」という石があったところまで行くことにした。
頼朝の馬が通ったと伝わっているのだから、そこは鎌倉街道だったのだろう。
佐藤病院の敷地の隅に、隠れるようにしてあった化石を確認して、そこから南下する道を歩いて行った。
なんの変哲もない住宅街の道だけれど、途中には、古そうな愛宕神社や水天宮がある。
まあ、この道が鎌倉街道ということにしておこう。
城南小学校まで来て、校門前の上信電鉄の踏切を渡ると、「鎌倉街道記念碑」と彫られた石碑を見つけた。
ようやく、鎌倉街道を名乗る場所に出会えてホッとする。
この石碑の横を通る小道は、確かに鎌倉まで続いていく街道なのだ。
幹線道路の陸橋をくぐって進んでいくと、その先には琴平神社があった。
ここにはそもそもお稲荷様が祀られていたものの、高崎藩士の寺田宗有(てらだむねあり)が、「一昼夜で讃岐から分霊を勧請した」と伝えられている。
まさか一昼夜で、この高崎から四国まで行けるわけはない。その奇説はどこから生まれたのだろう。
調べてみると、寺田宗有は江戸時代後期の剣豪で、彼のエピソードから「ああ、なるほど」と合点がいった。
宗有は、あまりの強さから「天狗の化身」だと思われていたのだ。
天狗であれば、大空を飛んで一昼夜で讃岐から高崎に舞い戻り、金刀比羅宮の分霊を連れ帰ることも可能だろう。
道理でここに天狗が立っているわけだ。
と、狛犬のように参道を守る、ニ体の天狗を仰ぎ見た。
さて、琴平神社から先、鎌倉街道はどのように続くのだろう。
これまでの街道歩きの経験から、たぶん曲がりくねる道がそうなのだろう、と思って進んでいくと、案の定、鎌倉街道の名残りとおぼしき馬頭観音様が現れた。
推理しながら辿っていくのは、楽しい。ちょっとしたゲーム感覚だ。
こうして、推理と答え合わせを繰り返しながら、鎌倉街道の見つけ方のコツを、徐々につかんでいった。
鎌倉街道は、新幹線の高架を見下ろす位置、河岸段丘の上を通っていく。
しばらく行くと、「佐野の船橋歌碑」というものがあった。
かみつけの佐野の船はしとりはなし
親はさくれどわはさかるがへ
と、万葉集にも詠まれている場所らしい。
船橋とは、船をつないだその上に板を渡した橋のことで、こんな言い伝えが残っている。
かつて烏川をはさんで二つの村があり、それぞれの長者の息子と娘が恋仲となり、夜な夜なこの船橋を渡って人目を忍んで会っていた。
それを知った親が、ある晩、橋板を外して会えないようにしたところ、そうとも知らずに、二人は川に落ちて死んでしまった。
こんな「ロミオとジュリエット」的な話は世界中にある。
手に入れることが難しいもの、目に触れることが限られているものほど価値が上がるように、苦難が多いほど恋愛が燃え上がるのは、今も昔も、普遍の恋愛法則なのだ。
寄り道してその川を見に行くと、今は、鉄の橋脚の上に木製の橋が架かっていて、付近の住民が、「日常の風景です」とでも言うように行き交っていた。
万葉集に詠まれた男女も、今の時代に生まれていたとしたら、結構さらりとした関係だったかもしれない。
こんな便利な橋があれば、いつでも会えると思って、恋人の「ありがたみ」が半減したかもしれないから。
その橋から歩いて3分ほど、「常世(つねよ)神社」が現れた。
佐野源佐衛門常世という人物の屋敷跡が、この小さな神社になっていて、この場所こそが、僕らがよく知る「いざ鎌倉」という言葉の由来となったところだ。
ここでは、こんな物語があった。
領地を横領され、窮迫の生活をしていた武人、常世。
彼の家に、ある大雪の晩、修行僧が一夜の宿を頼んだ。
常世は、なんとか温かい食事を作り、僧に暖をとってもらおうと、囲炉裏の薪が尽きたところで、秘蔵の盆栽を燃やしてもてなした。
囲炉裏を囲みながら、常世は僧にこう語る。
「こんな貧しい暮らしをしてはいるが、いざという時には痩せ馬に乗って真っ先に鎌倉へ馳せ参じてみせる」と。
僧を送り出してからしばらく経って、幕府から召集がかかる。
鎌倉に駆けつけた先に待っていたのは、その時の僧。
なんと、彼は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼だった。
時頼は、常世の誠意にうそ偽りのないことを確認し、失われた領地を取り戻してあげた上に、囲炉裏にくべた盆栽のお礼にと、新たな領地も与えたということだ。
以上が、能の演目「鉢の木」のストーリー。
その中で佐野源佐衛門が語るセリフから、「いざ鎌倉」という言葉が生まれた。
所領を横領されても、困窮の生活を強いられても、なお鎌倉に忠誠を誓うほどの恩義とはいったい何なのだろう、と思う。
この街道を歩き終えるころには、その答えが分かるだろうか。
鎌倉街道は、しばらく上越新幹線の高架に沿って続いていく。
地図で見ると、このあたりには古墳がいくつもある。
「佐野古墳群」と呼ばれていて、前方後円墳が80基もあるらしい。
6世紀後半には、この地域に大和王権の支配が及び、「佐野屯倉(さののみやけ)」が設置された。
あの、JR高崎駅構内にレプリカがあった「上野三碑」も、この佐野屯倉とのゆかりがあるそうだ。
しばらく歩くと、「定家(ていか)神社」があった。
鎌倉初期の歌人で、「小倉百人一首」や「新古今和歌集」の選者、藤原定家を祭る神社というのが珍しい。
伝承では、定家が東国行脚をした折、このあたりに草庵を結び、京へ戻る段になって、持仏を村人に贈り、これをご神体として建てた祠が、この神社の始まりであるという。
地元では「定家さま」と呼ばれていて、恋愛成就や、失くし物を取り戻すおまじないが伝わっているそうだ。
そのやり方とは、次の通り。
まず、半紙に、百人一首の中の定家が詠んだ和歌、
「こぬひとを まつほのうらのゆうなぎに やくやもしほの みもこがれつつ」
と、心を込めて書く。
そして、その半紙をこの神社の木戸に貼っておくと、願い事が成就するというのだ。
そういえば、我が家の猫が行方不明になったときに、妻が百人一首の歌を書いて貼っていたな、と思い当たった。
あとで妻に聞いてみたら、その歌ではなく、在原行平の和歌、
「たち別れ いなばの山の みねに生ふる まつとし聞かば いま帰り来む」
の方だった。いろいろあるんだな。
そもそも和歌の目的は、「言霊(ことだま)を用いた呪術」であるらしく、「歌聖」とも呼ばれた藤原定家は、強力な「まじない師」と見なされていた可能性さえある。
おまじないの効き目があったのか、その後、猫は帰ってきた。
道が曲がりくねって続いていく。
鎌倉街道の特徴が徐々につかめてきた。
住宅街ができるより先に、この道は確かにあったのだ。
常世も、痩せ馬にまたがって、「いざ鎌倉」と、この道を駆けて行ったのだろう。
はるか離れた鎌倉を目指して、走り抜けた坂東武者に思いを馳せながら、僕はしだいに鎌倉街道に魅せられていった。