【第67回】みちびと紀行~下田街道を往く(小鍋峠) みちびと紀行 【第67回】
稲生沢川沿いの道を歩いていく。
Google Mapで確認すると、左手の山は「深根城址」だ。
伝承によれば、城主の関戸吉信が、堀越公方だった足利茶々丸をこの城にかくまい、攻める伊勢宗瑞(北条早雲)に対して徹底抗戦。
けれど、ついに敗れて城は落ち、茶々丸は自害。
城内の老若男女は、ことごとく首を切られたという。
もともと備中の人だった伊勢宗瑞は、この深根城の戦いで、ついに伊豆一国を乗っ取ることに成功する。
伊豆から挙兵した源頼朝が、やがて相模の国に出て関東一円の地盤を築いたように、伊勢宗瑞を初代とする後北条氏も、伊豆を足掛かりにして、後に関東の雄となっていったのだ。
その先を行くと、「茶々丸」と書かれた石碑が電信柱の脇にあるのを見つけた。
どうやらこの奥に、自害した足利茶々丸の墓所があるらしい。
このときは、まだこの人物にまったく思い入れはなかった
この人の墓を見るまでは。
「茶々丸のお墓はこの奥にあるんですか?」
山道を上りながら、畑仕事をしていた男性に尋ねてみる。
「ああ、300メートル先だよ。ほんと、わかりにくいから。覚悟して。」と、半ば脅すように言いながら、行き方を教えてくれた。
「ここをとにかくまっすぐ上ると、まず竹林があって、次に墓地、その次に杉林。その中で一番大きな杉の木の下にあるのがお墓だよ。案内標識とかはないから。」
言われたとおりぶつぶつ復唱しながら上っていくと、果たして小さなお墓を見つけた。
しばし呆然とする。
こんなにもひっそりと、しかも無造作にあるお墓を見たことがない。
もう何年も、墓参者がいないのではないか。
足利茶々丸。
この人が生きた時代は、本当に複雑で分かりづらい。
足利将軍家は、京都を拠点としながら、関東の国々については、一族の者を派遣して「鎌倉公方」と称して分業で国を治めていた。
ところが、この鎌倉公方が京都の将軍家に楯突くことがしばしばで、関東は不安定な状況が続く。
やがて鎌倉公方だった足利成氏が、鎌倉を追い出され、「古河公方(こがくぼう)」を称するようになると、中央から新たな鎌倉公方として、時の将軍足利義政の異母兄である足利政知が派遣されることになった。
ただ、成氏の勢力はいまだに強く、安心して鎌倉に入れる状況ではなかったので、いったん、伊豆の堀越(ほりごえ)に留まることになった。
これが「堀越公方(ほりごえくぼう)」のはじまりだ。
茶々丸は、この足利政知の嫡男だった。
茶々丸はやがて「素行不良」ということで廃嫡され、まだ子どもながら土牢に監禁されることになる。
ところが、父の政知が亡くなった後、牢から抜け出して、父親に廃嫡をそそのかしたとされる継母と、すでに後継ぎ指定を受けていた異母弟を殺害し、第二代堀越公方の座を自力でもぎ取ってしまうのだ。
これに対し、政知の直臣だった伊勢宗瑞が反旗を翻し、深根城の戦いを最後に、主君にとって代わることになった。
まさに戦国の世のならい、下克上の嚆矢というわけだ。
「茶々丸」というのは幼名で、まだ元服する前に人生を終えたというから、なんと短くも苛烈な一生だったことか。
次にここに人が訪れるのは、どれくらい後になるだろう。
そう思いながら、静かな杉木立の中で、しばらく手を合わせていた。
時刻は正午。
稲生沢川と別れて、次は稲梓川(いなずさがわ)沿いに歩いていく。
気温は18℃、Tシャツで歩きたいくらいだ。
そろそろお腹が空いてきた。
どこか食べるところはないかと探していたら、看板をみつけた。
「地場産品持ち寄り処・あずさ気まぐれ売店」
出す人・気まぐれ
売る人・気まぐれ
買う人・気まぐれ
値段も・気まぐれ
こいつはおもしろそうだ。
行ってみると、ご年配の方々が店の前に集まって談笑している。
結構繁盛しているんだな。
店に入ろうとしたら、年配の女性に呼び止められた。
「あらぁ、今日は臨時休業なのよ。」
なんだ貸し切りだったのか。
「せっかく来てくれたのにごめんねー。」
まあ仕方がない。
そのまま立ち去ろうとしたら、「ちょっと待って」と呼び止められた。
女性は店に入って、なにやら持って出てきた。
「せっかく来てくれたから。これ、途中で食べて。」
と、僕の手にどら焼きとミカンを乗せてくれた。
ほんとうに「気まぐれ」だ。
ミカンを頬ばりながら歩く。
そして、「気まぐれ」ということについて考えてみる。
これは画期的なコンセプトなのではないか、と。
今のビジネスは、消費者の期待通りに、商品・サービスが提供されることが大前提になっている。
そして事前に、商品・サービスの詳細や、提供時期が事細かに説明される。
当然、消費者は、その説明通りになっていないと不満を抱く。
けれど、これが「その通りになるとは限りませんよ」と逆に言われていたとしたらどうだろうか。
結果、僕は過度な期待をしないことにするだろうから、逆にストレスなどまったく感じないはずなのだ。
そのときに気が向いたら買う。ただそれだけのこと。
いや、むしろ、さっきのように、予想外のものを受け取って、いきなりハッピーになることさえ考えられる。
売る側からしても、その日その時の事情に合わせて商売できるから、ストレスは格段に減る。
「気まぐれ」と言っておけば角は立たない。
高齢者が店の担い手になるとすれば、ますますこの「気まぐれビジネス」はうってつけだろう。
「気まぐれ」
それは、「おおらかな消費者」をターゲットに設定できる魔法の言葉なのだ。
まさに年配者の賢慮がなせるわざ。
先ほどの女性の屈託のない笑顔が思い出されて、にんまりとした。
道の脇に、いかにも古そうな石の道標があった。
「左 三しま」と彫られた文字がかすかに読みとれる。
Google Map上では、この先は行き止まりになっているけれど、この道標を信じて左の道を進んでいった。
道路の舗装が次第に粗くなっていく。
やがて舗装が途切れると、「小鍋峠古道」の案内標識が現れた。
案内板によれば、この小鍋峠を越えた歴史上の人物は3人。
老中松平定信、ロシアのプチャーチンとの交渉を下田で行った幕府の海防掛・川路聖謨(かわじとしあきら)、そして、下田から陸路で江戸に向かったハリスだ。
ここから先、山道を登っていく。
道はまあまあ整備されていた。
途中わかりにくい場所がいくつかあったけれど、道しるべがあったおかげで迷わずに済んだ。
案内標識から20分ほど、ひたすら登ると小鍋峠に着いた。
眺望が得られないところで、「小鍋峠」と書かれた立て札がなければ、素通りしたかもしれない。
ここから30分、薄暗い木立の道を下りていくと、ついに眺望が開けた。
眼下に見えるのは、湯ヶ野の集落だ。
立ち上る湯気に誘われるように、川沿いの小道を下って、湯ヶ野の温泉街に向かった。
川端康成の「伊豆の踊り子」では、その短い小説の中でも、湯ヶ野のシーンに最も紙幅を割いている。
川端自身が、「『伊豆の踊り子』は私の実体験だ」と記していて、かつては実際に小説で描かれている通り、旅芸人たちがこのあたりの木賃宿に泊まって、日銭を稼いでいたのだろう。
自分自身を「孤児根性で歪んでいる」と否定し、鬱屈した思いを秘めて伊豆の旅に出た二十歳の川端が、天真爛漫で開けっぴろげな旅芸人一座に心を開き、やがて自己を肯定できるまでに救われていく。
その過程が、まるで一枚一枚衣服を脱いで、最後に温泉にザバーンと浸かり、素っ裸の自分を楽しむかのようで、この場所に似つかわしい小説だと思えてくる。
予約していた宿は、湯ヶ野の温泉街から離れた梨本という場所にあった。
宿の方向に向かっていくと、「小鍋神社」という案内標識を見つけた。
軽い気持ちで行ってみたら、源頼朝ゆかりの場所だった。
伝承によれば、頼朝はここで、伊豆に流された文覚上人と出会い、父の義朝のドクロを見せられて、「さっさと平家を倒せ」と発破をかけられたとのことだ。
伊豆には、次から次へと「癖のある」人物が流れ着く。
そのドクロが埋められた場所というのが本堂横の大きな樫の木の根元だという。
このあたりだったのだろううかと、それらしき大木の根元を見てみる
そんなことにはお構いなしに、神社の隣では、トンカントンカンとけたたましい音を立てて、伊豆縦貫道路の工事が続けられていた。
4:10pm、今宵の宿「天城温泉禅の湯」に着いた。
「慈眼院」という禅寺の敷地内にある。
下田街道の入り口からここまで、所要時間は7時間、歩行数33,000歩、距離にして25km。
小鍋峠を別にすれば、のんびりと歩ける気持ちの良い道だ。
ここのお宿は、温泉の評価がすこぶる高い。
今日は温泉三昧といこう。
暮れてゆく山の風景を眺めながら、全身を伸ばして湯船に浮かんだ。