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【第58回】みちびと紀行~甲州街道を往く(石和~甲府柳町) みちびと紀行 【第58回】

ホテルの窓から富士山が見えた写真ホテルの窓から富士山が見えた

6:00am、起床。
窓の外には、富士山の頂が山の向こうに顔を出している。
昨晩は、3回も温泉に入った後、布団に身を沈めて眠った。
昨日43km動かし続けた脚も、すっかり軽い。

歴史はわりと新しい写真歴史はわりと新しい

石和温泉の始まりは、高度経済成長のまっただ中、1961(昭和36)年1月24日のこと。
ぶどう畑から湧出した摂氏60℃、毎分1,200リットルの湯が、付近の小川に流れ込み、「青空温泉」として全国的に話題になった。
ホテルのロビーに、当時の新聞の切り抜きが掲示してある。
「湧出量は熱海の二倍・果実と温泉のパラダイス、石和」
それまで、米と麦の生産に頼らざるを得なかった石和を、果実と温泉によって観光地に変えようと、あちこちで温泉採掘が行われ、ついにその一本が実を結んだということだ。
温泉旅館やホテルが林立するこの石和が、ほんの60年前は見渡す限り田んぼや農園だったことを想像すると、温泉の力は絶大だ。
旅行スタイルや客層が変化していく中で、次はどんな一手を繰り出していくのだろう。

甲州街道は松並木の右、土手の下の写真甲州街道は松並木の右、土手の下

8:00am、ホテルを出発する。
今日のゴールは20km離れた韮崎宿だ。
距離は昨日の半分、峠越えは無し。
平坦な甲府盆地を横切って行くだけの気楽な歩き旅になりそうだ。

笛吹橋から先、甲州街道は川沿いの松並木となって西進する。

笛吹川の名の由来となった写真笛吹川の名の由来となった

はずれに「笛吹権三郎の像」がある。
1577(天正5)年に起きた洪水で、流された母を探し求めて、母の好きだった笛を吹きながらさまよい歩き、ついには川の深みにはまって亡くなってしまったという伝説の青年だ。
笛吹川の名前はここから来ている。
ひとりの心優しい青年を悼むため、土地の人がそう呼び始めたのだろう。

しばらく細道となる街道の写真しばらく細道となる街道

石和は、甲府盆地の底辺部にあり、急峻な山から流れ落ちる水の引き受け場所として、昔から氾濫原となっていた。
この土地にどうにか安心して住めるようなったのも、武田信玄を筆頭に、代々の領主が治山・治水に心血を注いできたからだ。
従来、民衆に人気のある領主といえば、地域開発をやって民の生活基盤を整えた人物と相場は決まっている。
甲州人の信玄人気は、そのひとつの証明だ。

笹子トンネルの脇にあった「恩賜林」の案内板の写真笹子トンネルの脇にあった「恩賜林」の案内板

代々治められてきた山と川。それも明治期になると、危うくなっていく。
その大きな原因は、それまで入会地として人々が山林を共同管理していたものが、明治以降は皇室の御料林となり、人々の立ち入りが制限されてしまったことにあるようだ。
山林を守る意義も人々の意識も、これで遠のいてしまった。
一方で、産業の発展にともない薪炭材需要は増えていく。
ひと儲けしようと、すでに公共のものではなくなった山林に目を付ける者もいた。
やがて御料林の盗伐が横行し、山林が荒廃、保水力が低下してしまう。
そして、明治40年には、ついに記録的な大水害となり、このあたりは壊滅状態になってしまった。
生活のすべてを失った3,000人もの人たちは、北海道に移住したそうだ。
「山梨」の地名が、北海道の虻田郡や余市郡に残っている。
この惨状を聞いた明治天皇は、明治44年、山梨県下の皇室所有の山林を、復興に役立てるため県に御下賜された。
その山林は、「恩賜林」と現在まで呼ばれている。

石和本陣跡に残る土蔵の写真石和本陣跡に残る土蔵

石和宿の本陣跡に着いた。
幅広の道路の脇に土蔵が残されているだけで、かつての宿場を想像するのは難しい。
たび重なる水害と大火で街並みがきれいさっぱり失われたがゆえに、かえって街路の拡幅も躊躇なくできたのだろう。

石和八幡宮、氏子たちが清掃していた写真石和八幡宮、氏子たちが清掃していた

石和は、代々武田家にゆかりのある土地で、第5代当主信光がこの地に館を構えてから、第18代信虎が躑躅ヶ崎(つつじがさき)に移るまで、ここに武田氏の本拠地があった。
武田家は、源氏の直系に当たる家格で、始祖源義光(新羅三郎)は、源義家(八幡太郎)の実弟。
鎌倉幕府を開いた頼朝と先祖が同じだ。
それを証明するかのように、中心地には、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮から勧請され、武田家の氏神となった石和八幡宮がある。
造営にあたって、源頼朝から500貫の寄進と、和歌の奉納があった。

源頼朝とも関係が深い写真源頼朝とも関係が深い

うつしては 同じ宮居の神垣に 汲みてあふかむ 美たらしの水

場所を移したとしても、源流は同じ源氏の直系。
たとえ鎌倉で源氏の将軍家が途絶えても、甲斐に血脈が続いていく。
信玄にどこかしら「毛並みの良さ」を感じるのは、こういうところからなのかもしれない。

富士の姿が神々しい写真富士の姿が神々しい

先ほどから左手後方に見える富士山が気になってしかたがない。
山の上から少しだけ顔を出している富士山が、なんとも美しい。
僕は静岡に生まれ育ち、輪郭を山裾までのばした富士山を見慣れている。
「表富士」と、周囲が言うままに呼んでいたけれど、こちら側から見る姿にもなかなかの趣がある。

昔、NHK大河ドラマ「武田信玄」で、信玄、北条氏康、今川義元が、駿河の善国寺に集まり、甲相駿三国同盟を結ぶ回があった。
中井貴一扮する信玄が、中村勘九郎扮する義元に、富士山の話題で散々コケにされるシーンだ。

義元「武田殿、甲斐から見る裏富士も、また別の味わいでござろうのぉ」
信玄「お言葉ではござりますが、甲斐では誰ひとり裏富士とは申しません。霊峰富士は霊験あらたかにして拝む山にござりますれば、下(しも)は隠してこそ正面。尻丸出しの姿では霊験も消えてしまうというものだそうな」
義元「甲斐は山国なれば見渡す限り山だらけ。まさに味わいのあるお暮らしぶりじゃ」

苦虫をつぶしたような中井貴一の顔が印象的だった。
ただ、義元がどう思おうと、今ここで眺めている富士は、このせりふ通りに確かに神々しく映る。
それは幾重も山を越えなければたどり着けない、「奥深さ」によるものなのかもしれない。

山崎三叉路、左に続く道が青梅街道の写真山崎三叉路、左に続く道が青梅街道

「山崎三叉路」という場所に通りかかった。
ここは甲州街道と、その裏街道だった青梅街道との分岐点で、新宿三丁目の伊勢丹前で分かれた二つの街道が、ここで再び一つになる。
鶴川の川越えを嫌った旅芸人の一座も、ここでは大菩薩峠に続く裏街道を選んだことだろう。
いつかこの道も歩いてみよう。
遠く左方向に続いていく青梅街道に、旅心がかき立てられた。

酒折宮の参道に向かう写真酒折宮の参道に向かう

住宅の密度が、甲府へ近づいていくことを感じさせるようになった。
街道のわきに、「酒折宮」と書かれた石碑がある。
山梨県では唯一、古事記・日本書紀に記載のある古社で、これまでの旅で何度も出会った、ヤマトタケルゆかりの神社ということだ。
寄り道して、彼の足跡を訪ねることにした。

酒折宮から参道を眺める写真酒折宮から参道を眺める

神社は、中央線の線路の向こうにひっそりとあった。
やまとたけるは東征の帰りにここに立ち寄り、「吾行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」と言って、彼の命を守ってきた火打ち袋を授けたと伝わっている。
彼が東征に向かう途上で伊勢神宮に立ち寄り、叔母の倭姫命から、草薙の剣とともに授かったものだ。
故郷の大和からこんなに遠いところまで旅をして、いったいどんな思いで大切に身につけていた「お守り」を残していったのだろう。

境内でただひとりお参りをしていたら、初老の男性がやってきた。
地元の人で、ちょっとしたウォーキング中だということだ。
「ヤマトタケルはここまで来たんですね」
と僕が言うと、
「ほんとにこんなところまで来たんですかね」
と何やらしらけたことを言う。
僕がこのまま甲州街道を歩いていくことを告げると、「では、善光寺に行きますので」と行ってしまった。
しばらく休憩したあと、僕も甲斐善光寺までさらに寄り道することにした。

甲斐善光寺の金堂へ向かう写真甲斐善光寺の金堂へ向かう

甲斐善光寺に着いて、その規模の大きさに圧倒された。
長野の善光寺には及ばないけれど、それに迫る大建築だ。
甲斐善光寺は、川中島の合戦によって信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れた信玄が、本尊の阿弥陀如来をはじめとする諸仏をこの地に移したことから始まった。
こんな大伽藍を戦国時代に建ててしまうのだから、信玄の神仏への崇敬の篤さが相当であることが伺える。
比叡山を焼き討ちした織田信長に、その信玄が激しい敵意を示したのも分かる気がした。

甲府柳町に着いた写真甲府柳町に着いた

時刻は11:30am、ついに甲府柳町に入った。
甲州街道の当初の終点だったところで、その後、ここから中山道との合流地点の下諏訪まで甲州街道が延伸された。
徳川将軍家の避難路という「裏の顔」があった甲州街道は、その退避シミュレーションとして、甲府城にまずは入ることが想定されていた。
その甲府城に向かっていく。

みごとに復元された鉄門の写真みごとに復元された鉄門

甲府城は、城郭が鶴が舞う姿に似ていることから「舞鶴城」とも呼ばれ、
その城址は、「舞鶴城公園」として市民に開放されている。
日本橋を出発して以来、その第一のゴールとして想定していた場所がこの甲府城だったので、自然に気分が盛り上がっていく。
甲府城は、豊臣秀吉の命により、浅野長政・幸長によって築城された。
そもそも江戸の家康を牽制するために築かれた城が、江戸期以降は、徳川の防御の要として機能し、ここに置かれた「甲府勤番」が幕府直轄地の甲府を治めていた。

本丸から見た富士山、たしかにホオズキのように見える写真本丸から見た富士山、たしかにホオズキのように見える

威圧感のある鉄門(くろがねもん)をくぐり、本丸に上ると、広々とした芝生の上で、制服を着た男子学生たちが、腰をおろして弁当を食べていた。
爽やかで清々しい風が吹き渡っていく。
天守台に上ると、豪快な富士山が目の前に現れた。
太宰治が「富嶽百景」で「ほおずきに似ていた」と書いた意味が分かった。
言われてみれば、まさにほおずきの先っぽのようだ。
霊峰富士をことごとく陳腐に描写する、斜に構えたところが太宰らしい。

天守台から西の山々を眺める写真天守台から西の山々を眺める

西側にそびえる雪を抱いた峰々のことが気になる。
いったい何という名の山なのか。
天守台に上ってきた初老の男性に訊いてみる。
「いや、わからん。地元の者でないんでね。」
出張のついでに、甲府駅から近いこの場所に来たようだ。
次に地元の人らしい女性に、山を指さしながら訊いてみる。
「えー、何だろう。知らないですぅ。すみませーん。」
そうだ、あの男子学生たちに訊いてみよう。
先ほどまで弁当を食べていた男子たちに訊いてみた。
「あの山、なんて言う山かわかる?」
「分かりません!」
不意に先生に当てられた生徒のように、ぴしゃりと返された。
ではさらば、と歩き出すと、後ろの方で「南アルプス?」と仲間がごにょごにょ言っていた。
それは分かっておる。

この交差点であの山の名前がわかった写真この交差点であの山の名前がわかった

再び甲州街道に戻り、西に向かって歩いていく。
いったい何なんだろう、あの山は、、、。
交差点で、昼食帰りらしい体格の良いビジネスマンに訊いて、やっと答えがわかった。
「あれは甲斐駒ヶ岳ですね。」
気持ちが一挙に晴れ渡るようだった。

いったい僕はなぜ、そこまで熱心に山の名前を求めたのだろう。
後で思い返すに、僕はそのとき、すでに後方に去った富士山に代わる、何かの目標物を必要としていたのだ。
「甲斐駒ヶ岳」
それが次の道しるべになった。

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