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【第56回】みちびと紀行~甲州街道を往く(駒飼~勝沼) みちびと紀行 【第56回】

中央自動車道の先は鶴瀬宿だの写真中央自動車道の先は鶴瀬宿だ
民家の裏にあった「武田勝頼公腰掛石」の写真民家の裏にあった「武田勝頼公腰掛石」

駒飼宿から、次の宿場、鶴瀬宿までは800メートルしか離れていない。
ゆるゆると坂を下って中央自動車道をくぐると、すぐその先は鶴瀬宿だ。
「武田勝頼公腰掛石」の案内標識を見つけて行ってみると、ちょうど一人が腰かけられる大きさの平たい石が、民家の奥に申し訳なさそうに残っていた。
勝頼は、逃避行の最終局面に、このあたりで、笹子峠の向こうの小山田信茂の動静を伺っていた。
武田家の親族だった木曽義昌や穴山梅雪はすでに寝返り、織田や徳川が甲斐に迫ってくる状況で、勝頼は、韮崎に築いたばかりの拠点「新府城」に火を放ち、郡内領主の小山田氏を頼りに東へ落ち延びていく。
当初は5〜600人いた一行も、道中で次々に逐電し、最後まで従う者はわずか41人になっていたらしい。
最後の望みをかけていた小山田信茂が謀反をはかっていることを知ったのは、この石に腰掛けていた時だっただろうか。

景徳院の写真景徳院(出典:公益社団法人 やまなし観光推進機構)

このあと、勝頼一行は、甲州街道を辿るのをやめ、ここから大和町田野の天目山に進路を変え、追っ手の滝川一益隊と一戦したのちに自刃する。
腹を十文字に掻っ切り、無念を叩きつけるかのように腸を四方に投げたと伝わっている。
勝頼父子の首は、その後、織田信長によって京の六条河原にさらされた。信玄の存命中は、ことを構えぬよう、ひたすら平身低頭していた信長にとって、武田家はよっぽど苦々しい存在だったのだろう。
対して徳川家康は、田野に景徳院を建立し、勝頼たちの菩提を丁重に弔った。
武田の遺臣たちが家康に敬服したのもうなずける。
さすが家康だ。

このあたりは石材屋が多い写真このあたりは石材屋が多い
鞍馬石の石碑の写真鞍馬石の石碑

鶴瀬宿には、郡内領の入り口にあたることから関所があり、ここで物流の取り締まりと人物改めをしていた。
先ほどから、どうも石材屋が多いと思っていたら、このあたりには「甲州鞍馬石」の採掘場所があるらしい。
鞍馬石というのは、もともと京都の鞍馬山で採掘していた、鉄分を含み、水に濡れると錆びたように茶褐色になる石で、庭石や、靴脱ぎ石によく使われる。
「わび・さび」を味わう茶室には欠かせない石だ。
現在、鞍馬山では採掘が禁止となっており、その代わり、このあたりで同種の石を産出しているということだ。
よくよく見たら、このあたりの街道沿いには、茶褐色の石碑が多かった。
残念ながら、この風合いがわかるほどに、僕は円熟してはいない。

勝頼一行の逃避行の跡があちこちにあった写真勝頼一行の逃避行の跡があちこちにあった

甲州街道を西へ辿る旅は、戦国の雄・武田家の滅びる過程を巻き戻していくようで切ない気持ちになる。
武田の家臣たちが逃亡をはかった場所が旧跡として点在し、勝頼の守り本尊だった不動尊を里人に託した場所さえある。
平家物語を読み進めるのに似て、勝頼の物語は、はかなく悲しい。

柏尾古戦場に立つ近藤勇像の写真柏尾古戦場に立つ近藤勇像

やがて、もう一つの「滅びの物語」、新撰組の決戦場となった柏尾に着いた。
下諏訪から甲州街道を通って江戸に迫る官軍を新撰組が迎え撃った場所だ。
もうこの頃になると、新撰組に古参の剣士はわずかとなり、甲州街道の道すがら隊に加わったという、心もとないものだったらしい。
近代装備の官軍に、剣一筋の新撰組は歯が立たず、一時間余りで勝敗が決した。
新撰組はそれから散り散りになった。
そもそも近藤勇に勝つ意志はあったのだろうか。
新撰組にとっての「死出の旅」。
彼らの行程を辿ると、そのように思える。

勝沼駅近藤勇驍勇之図の写真勝沼駅近藤勇驍勇之図 (出典:山梨県立図書館)

官軍が上諏訪に達したのは3月1日、この日に新撰組を主体とする「甲陽鎮撫隊」200人が甲州に向かって江戸を出発する。
ところが、一日目は内藤新宿の遊女屋泊まり、行軍わずか3kmだったらしい。
第二日目は府中に泊まり、近藤の故郷の人々と酒宴。
第三日目は日野宿の佐藤家で別れに時間を費やし、与瀬泊まり。
一方の官軍が、夜行軍をしてはやくも甲府城を開城させてしまったのに対し、不思議なほどにのんきだ。
戦の常道からすれば、すぐ先の古刹「大善寺」を砦とするのが良策だっただろうに、それをしなかったのも、武田家の信仰が篤く、徳川家の寺宝があった寺に礼を尽くす、近藤の武士としてのたしなみだったのだろう。
彼は、大名格の武士として、その人生を終わらせようとしていたのかもしれない。

大善寺山門の仁王像の写真大善寺山門の仁王像

柏尾の古戦場から10分ほど歩くと、大きな山門を擁した、いかにも古そうなお寺についた。「柏尾山大善寺(かしおさんだいぜんじ)」、別名「ぶどう寺」だ。
創建は、奈良時代の718年にさかのぼり、甲斐の国を訪れた僧行基が、夢で手にぶどうを持った薬師如来を見て、その姿を刻んで安置したと言われている。

芭蕉句碑「勝沼や馬子は葡萄を喰ひながら」の写真芭蕉句碑「勝沼や馬子は葡萄を喰ひながら」

ぶどうといえば、日本らしくない果実のイメージを持っていたので、そんなに昔から日本にあったとは驚きだ。
ぶどうの原産地は、中央アジアのコーカサス地方。
甲州ぶどうの原種は、ワインに適したヴィテス・ヴィニフェラ種で、これがシルクロードを通り、日本にもたらされ、気候風土が適している勝沼地区に根付いたとされている。
江戸時代、このあたりはぶどうの産地として既に知られていたようで、ぶどうを詠んだ芭蕉の句碑も残されていた。

国宝 大善寺薬師堂の写真国宝 大善寺薬師堂

武田勝頼一行は、居城の新府城に火を放ったのち、この大善寺に一泊している。
この寺には、理慶尼(りけいに)という、勝頼の乳母だった人物が暮らしていて、このとき薬師堂で、勝頼、勝頼夫人、勝頼の息子の武田信勝と寝所を共にし、薬師如来に祈りを捧げた。
その後「理慶尼記」というものを記し、これが「武田滅亡記」と呼ばれることになる。
「滅び」というのは、人間が記しておくべき、最も大切なテーマなのかもしれない。

光の射すあたりが石和だろうかの写真光の射すあたりが石和だろうか

時刻は3:30pm、日が傾く頃だ。
境内をひととおりまわり終えた先に、「甲府盆地展望」とかかれた標識を見つけた。
展望台の先には、広大な甲府盆地。
その大地を、雲間から柔らかな日の光が照らしていた。
あの光の射すところが、今日のゴール、石和宿あたりだろうか。
さあ、そろそろ行こう。
階段を下りると、山門の向こうには、一面のぶどう畑が広がっていた。

山門の向こうにぶどう畑が見えた写真山門の向こうにぶどう畑が見えた

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