【第43回】みちびと紀行 ~中山道を往く(本庄宿~新町宿) みちびと紀行 【第43回】
本庄宿の食堂モンキーでお腹を満たしたあとは、街の中を少し散策することにした。
きょろきょろと辺りを見まわしながら歩いていると、なにげない路地のあちこちに歴史の面影が残っていて、懐かしさを誘う。
けやきの大木が植わっているこんもりとした丘を見つけた。
「愛宕神社」という場所で、この丘はもともと古墳だったと説明板に書いてある。
このあたりには古墳が多いのか。
そういえば、本庄市のマスコットが「はにぽん」という埴輪のキャラクターだったことを思い出す。
本庄市のサイトを調べてみると、市内には「本庄地域」だけで180カ所にもおよぶ遺跡が分布しているらしく、その多くは古墳時代から奈良・平安時代にかけてのものということだ。
そして説明はさらに続き、「最も古い遺跡は約15,000年前の旧石器時代のもので、本庄に最初に来た人は、信州の和田峠付近で算出する黒曜石製のナイフ型石器をその証として残していった」とある。
和田峠といえば、この僕が歩いている中山道がこの先通る場所だ。
そんなに昔からこの道を伝って文化・文明がやってきたのか。
改めて道の成り立ちとその奥深さを思わずにはいられなかった。
埴輪のキャラクターと言えば、僕の世代(いや、だいぶ上の世代か)は、大映映画の「大魔神」を連想してしまうのだけれど、このあたりの古墳は、大阪や奈良にあるような大規模なものではなく、ぽっこりとしたかわいい古墳ばかりで、「はにぽん」がしっくりくる。
「はにぽん」は、本庄市の「前の山古墳」で発掘された「大耳しゃくれあごの盾持人物埴輪」をモデルにして作られたそうだ。
その画像を見たら、満面の笑顔。
なにやら平和な時代が想像できて、こうしてそぞろ歩いている町が、ますますのどかなところに思えた。
大耳しゃくれあごの盾持人物埴輪(出典:本庄市HP)
中山道沿いには「旧本庄商業銀行煉瓦倉庫」が残されていた。
明治29(1896)年に建設されたもので、本庄商業銀行の融資の担保となった大量の繭を保管するために建てられたということだ。
本庄の町は幕末期から繭の集散地として繁栄をはじめ、明治5(1873)年に富岡製紙場が開業すると、そこに繭を供給するために本庄の繭市場がいっそうにぎわうことになる。
さらに、明治16(1883)年に日本鉄道(現高崎線)本庄駅が開業すると、繭と絹のまちとして、一大発展を遂げることになった。
世界遺産となった富岡製紙場ばかりに注意が向いてしまっていたけれど、日本の近代化の大黒柱となった絹産業の発展は、この地域一帯のつながりをとらえてこそはじめて理解できるものなのだろう。
そんなことを考えながら倉庫内部の展示を見ていたら、「上武絹の道」という周辺自治体の連携プロジェクトが既に動き出していることを知った。
片倉シルク記念館がある熊谷市から、深谷、本庄を通って富岡製紙場、そして下仁田の荒船風穴に向かう道と、本庄から高崎市、磯部温泉を通って碓氷峠に至る道の二本が地図上に描かれている。
この「絹の道」もいつか歩いてみよう。
僕の「歩きたい街道リスト」に新たな一行が加わった。
(参照「上武絹の道」公式サイト: https://www.jobu-kinunomichi.jp/ )
時刻は4:50pm、神流川(かんながわ)にさしかかった。
この川は、埼玉県と群馬県の県境になっている。
人はなぜ、川を、そして峠を、クニの境目として認識してきたのだろう。
そんなことを考えながら、これまで歩いてきた埼玉県の道のりを、懐かしい気持ちで思い返していた。
ここでは「神流川合戦」と呼ばれる大きな戦があった。
天正10(1582)年6月2日、織田信長は本能寺の変で横死した。
その情報は、6月9日に、関東の地で戦っていた織田方の武将・滝川一益のもとに届き、同じ頃に、この地で争っていた北条氏にも知られるところとなる。
一益は、信長の仇を討とうと、急いで京を目指す。
対する北条氏は、この好機を逃すまいと、5万の大軍をこの神流川流域に差し向けた。
一益は、西上州軍1万6千を率いて、6月18日、合戦に入る。
この戦は、関東における戦国時代最大の激戦で、「炎熱石を焦がし流水煮える中に阿鼻叫喚の死闘であった」と伝えられている。
滝川軍は3,760人の戦死者を出しながら、翌19日、中山道を京に向かって敗走した。
その後一益は、中山道を通過するために、木曽地域を支配する木曾義昌の懐柔に奔走する。「足止め」をくらっていたのだ。
そうこうしているうちに、6月27日、信長亡き後の織田家の体制を決定する「清洲会議」が、一益を除く4人の宿老、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、そして羽柴秀吉の間で開かれてしまう。
一益にとっては、生涯の痛恨事だったことだろう。
これを境に、織田家における一益の地位は一挙に急落してしまう。
この逸話、今の時代にも当てはまることがよくあるように思われて、なにやら悲哀を感じた。
神流川を渡って群馬県に入ると、左前方にガラス張りのしゃれた工場が見えてきた。
焼き菓子「ラスク」で有名な、「ガトーフェスタハラダ」の本社工場だ。
こちらのラスクは、東京から地方に出張する際の手みやげとしてよく買っていた。
見た目に高級感があって、トリコロールのデザインでそれぞれ個別に包装されているから配りやすく、大きな部署を擁する出張先にはおみやげとして重宝したものだ。
ウィキペディアによれば、ガトーフェスタハラダは、1901年に和菓子屋として創業し、この新町で和菓子店「松雪堂」を開業したようだ。
終戦後の1946年には、GHQが調達する小麦を使ったパン製造に転換し、学校給食用のパン、そして店舗では一般客向けのパンと洋菓子を販売していたが、バブル崩壊後の贈答菓子の需要低迷、そしてスーパーとコンビニの台頭で業績が悪化し、1997年から3期連続の赤字を記録したそうだ。
その起死回生の一手が、ラスクの製造販売だった。
製パン業時代から、余剰となったパンをラスクに加工して安く販売していたものを、「グーテ・デ・ロワ」というブランド名で高級イメージを付けて、2000年から販売を開始した。
当初は奮わなかったものの、都内百貨店や物産展での販促活動が功を奏し、やがて爆発的な売れ行きを上げ、経営危機を克服し、さらに成長を成し遂げたということだ。
本庄で出会った地元の人が、「昔はラスクは安いお菓子だったのに、今では高級菓子になって、、、」とぽろっと話していたのが興味深い。
新町宿に入っていくと、中山道沿いにガトーフェスタハラダの本店があった。
4年前に通った時とはがらりと変わって、まるで宝石店のように豪華に改装されている。
この「高級感」の演出が、ラスクの付加価値を生み出しているのだろう。
今起こっているコロナ禍では、人々がどんどん内省的になっているように思う。
これまで無意識下に置かれていた人々の「価値観」が、今後はそれぞれの意識の上で問われることになっていくのだろう。
その時代々々の変化に合わせて柔軟に業態を変えてきたこのお店は、きっと「斬新な一手」を出して、この混沌とした時代を乗り切っていくにちがいない。
新町宿は、本庄宿と倉賀野宿の間にあり、江戸から数えて11番目、中山道69次の中で最も新しくできた宿場町だ。
中山道沿いに「行在所(あんざいしょ)公園」というところがあり、ここに、明治11(1878)年、明治天皇が北陸巡幸の際にご宿泊された平屋建ての建物が残されていた。
時刻は既に5:15pm、薄暗くなってきた。
さて、今回の中山道歩きの旅はこの新町宿で終了としよう。
日本橋からここまでは、中山道の中でも「武州路(ぶしゅうじ)」と呼ばれる区間で、この新町から先は、「上州路(じょうしゅうじ)」という区間になる。
京都まではまだまだ遠い道のりだけれど、そもそもゴールを急ぐ旅ではない。
そこまでの道のりをゆっくりと味わうことの方が、今の僕にはずっと意義がある。
旅のしめくくりは、ひとりお酒で祝宴か、あるいは銭湯でさっぱりとするか、、、?
迷った末に、ここまでなにごともなく安定して歩き続けてくれた我が「足」を慰労するために、この町の銭湯に寄っていくことにした。
ここには「諏訪の湯」という、地元民のための銭湯がある。
道を少し戻ると、高い煙突となんとも味のある文字の看板が見つかった。
「ゆ」と書かれたのれんをくぐると、背中を丸めたおばあさんが、「いらっしゃい」とぼそっと言って僕を迎えてくれた。
せまく雑然とした脱衣場には既に常連客らしき人が3人いて、意外にも(失礼!)繁盛しているようだ。
風呂場は6人入ったらいっぱいになるくらいの広さで、手際よくからだを洗って湯船に浸かる。
入浴剤が入ったマリンブルーのお湯は、ほどよい熱さでゆったりと入っていられた。
身体じゅうの疲れがお湯に溶けだしていくようだ。
今回の旅路を改めて思いながら脚を伸ばして浸かっていると、あとから入ってきた2人のお客さんが、「ちょっとぬるいよな?」と言いながら、大声で「ぬるいよー!」と外に向かって呼びかけた。
どうやら外では薪をくべているらしく、しばらくたつと、お湯が俄然熱くなってきた。
二人は「その調子、その調子」と言っていたけれど、僕はと言えば、お湯の熱さに追い立てられて、平和な時間はあえなくお開きになってしまった。
JR新町駅からは、6:25pm発の湘南新宿ライン快速で帰ることにした。
これに乗れば、8:00pmには池袋駅に到着できる。
日本橋からこの群馬県の入口まで、5日間かけて歩いた道のりは、電車に乗れば1時間半で着いてしまう距離だ。
けれど僕にはちょっとした「冒険」をした充実感がしっかりと残っている。
僕が歩き旅をおもしろいと思う理由のひとつは、この「時間の感覚の不思議さ」にある。
時間はすべての人に量的に等しく与えられているけれど、「時間の密度」は「おもしろがる意識」に左右されるのだ。
向かいのホームを見ると、「群馬へまた来てね!群馬の玄関新町駅」と書かれた横断幕が掲げられていた。
ぜひそのとおり、またいつかここに戻って、京都に向けて中山道を歩いていこう。
そう思いながら、東京に向かう列車に乗り込んだ。