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【第41回】みちびと紀行 ~中山道を往く(深谷宿、渋沢栄一の足跡) みちびと紀行 【第41回】

つかもと燃料店の写真きん藤旅館の向かい、「つかもと燃料店」

6:00am、目覚めてしばらく窓の外を見ていた。
昨晩は、この旅館に泊まって大正解だった。
ここから東京の自宅までは電車で1時間半しか離れていないのに、どこか遠くの旅先にいるようだ。
特にこの格子窓から見る中山道の面影は、いつまでも見ていて飽きない。
この旅館の名前「きん藤」の由来は、創業者が近江出身の藤平(とうべい)だったことから、「近藤(きんとう)」となったとうかがった。
中山道は、はるか遠く滋賀県にまで続いて、縁をつないできたのだ。

向かいのレンガ造りの家がなんとも風情がある。
朝食前に外に出て様子を見に行くと、そこは「つかもと燃料」というお店だった。
閉じられた店のガラスに、手作りの案内が貼られていて、末尾に「暇そうに見えましたらお声がけ下さい」とある。
あいにくお会いすることはかなわなかったけれど、気さくな店主なのだろう。
「我が家のうんちく」という案内にはこのように書かれていた。

  • 大正元年築造、創業は明治初期、武州近江屋、元禄元年に近江から深谷入り
  • 英国積みレンガ様式
  • 施主:塚本榮平
  • 榮平は当時、渋沢栄一翁が経営する日本煉瓦製造株式会社に燃料用の石炭を納めていた縁と、火災による類焼防止にレンガは最適と考え、これを使用する。
  • 初代「塚本榮平」は、深谷で自転車を営業車として最初に利用した粋な人物♪これぞ近江商人!!

ほかにも、この建物や代々の当主についての「うんちく」が満載で、実に楽しい。
今の時代に、こんなに詳しく生き生きと自分のご先祖さまを語れるとは、それこそ「粋」だ。

今日の旅の計画は大ざっぱで、行き当たりばったりでいいかと思っていたけれど、この「レンガ」に俄然興味がわいてきた。
「日本煉瓦製造株式会社」の工場に行ってみよう。

JR深谷駅の写真JR深谷駅
深谷駅の横断幕の写真深谷駅の横断幕

地図を見ると、JR深谷駅からレンガ工場までつながっている一本の道を見つけたので、駅を起点に歩いていこくことにした。

ここしばらく、もう春かと思うようなポカポカ陽気が続いていたけれど、昨日から2月下旬本来の寒さに戻ってしまった。
晴れていても風が冷たい。
駅の周囲は、今年始まったNHK大河ドラマ「青天を衝け」に合わせて、深谷が生んだ偉人、渋沢栄一の観光キャンペーンが行われている。
以前から、大河ドラマの人物の選考基準について、よく理解できなかった。「今なぜその人をとりあげるのか」と。
けれど、今回は納得だ。
2024年から一新される、新一万円札の肖像画に決まったことは大きな理由にちがいない。
ただ、それだけではないだろう。
今は、日本のビジネス界の「リーダー像」が揺らいでいるように思う。
しっかりとした国家観を持ち、自身の事業だけでなく社会全体のことを考えている人格者として、心から敬服できる日本の経済の牽引者は?と問われれば、今の時点で、何人の日本人の名前があがるだろうか。
「近代日本経済の父」といわれる渋沢栄一をとりあげることにしたのは、そんな背景のもと、「実業」の原点を問い直そうとしたのだろう。
「論語と算盤」で、渋沢栄一はこのように記している。

富は必ずしも悪いと貶めたものではない。しかしながら、ただ一身さえ富めば足るとして、さらに国家社会を眼中に置かぬというは慨すべき極である。何にせよ社会人心の帰向がそういう風になったのは、概して社会一般人士の間に人格の修養が欠けておるからである。

(参照:「論語と算盤」p.217)

このドラマには期待している。

深谷駅からレンガ工場まで続く遊歩道の写真深谷駅からレンガ工場まで続く遊歩道
自転車と歩行者が分離されていて安心の写真自転車と歩行者が分離されていて安心

栄一が明治20年に作った日本煉瓦製造株式会社は、駅から4km離れた利根川の支流・小山川のほとりにある。
当初は、製造したレンガを利根川の舟運で東京まで運んでいた。
けれど、輸送力が安定しておらず、明治28年に、工場から深谷駅までレールを敷き、以後は鉄道で輸送することになった。
昭和40年代まで使われていたらしい。
鉄道が廃線となったのちは、こうして今僕が歩いている自転車・歩行者専用道「あかね通り」となった。

この女性に、遠くに見える山の名前を尋ねた写真この女性に、遠くに見える山の名前を尋ねた。

道は、駅から緩やかなカーブを描いて住宅街を進んだのち、常夜灯のあたりで中山道と交差して、そこからまっすぐに伸びていく。
車が通らず、自転車とも分離されているから、ウォーキングにはうってつけだ。
国道17号をまたぐ橋を渡っていると、遠方に、雪を抱いた美しい山が見えてきた。
なんという名前の山だろう。
橋の上ですれちがったウォーキング中の女性に尋ねてみる。
「ああ、あれですか。男体山って聞いたことあります。私もわからなくて教えてもらったことがあって、、、。」
この町出身ではないけれど、ここに引っ越して以来、毎朝この道を歩いているそうだ。
「え?男体山ですか?栃木県ですよね。」
まだ埼玉県だと思っていたら、同じ埼玉でも、もうずいぶん北の方まで歩いてきていたのだ。

日本で最初のプレート・ガーダー橋の写真日本で最初のプレート・ガーダー橋
遠くに浅間山が見える写真遠くに浅間山が見える

途中で「福川」という川を渡る。
そのほとりにイギリス人技師ボナールが設計した鋼板桁(プレート・ガーダー)橋があった。
日本に現存する最古のプレート・ガーダー橋らしい。
田園風景が広がる中に、明治期の遺構がぽつんと残されていた。

備前渠鉄橋の写真備前渠鉄橋
正門まで続くレンガ塀の写真正門まで続くレンガ塀

国道17号バイパスをくぐって、ひたすらまっすぐ歩いていくと、やがて「備前渠鉄橋」に達した。
橋は国指定重要文化財になっている。
レンガ工場の敷地のすぐ横にあって、遠くに1本、煙突が立っている。
明治40年の最盛期には、6基のレンガ窯が稼働し、6本の煙突が立つ風景は深谷のシンボルだったらしい。
そこから先、工場の正門まで、レンガ塀が続いていた。
工場の敷地は、約10万平方メートルもあるらしい。
原料となる粘土は、周辺の畑地から採掘されて工場まで運ばれ、採掘後の畑は、一段低い水田となった。
ここで生産されたレンガは、東京駅、旧東宮御所(今の迎賓館赤坂離宮)、日本銀行本店本館など、多くの建物に使われている。
火災とは切っても切れなかった江戸の町を、このレンガによって、首都にふさわしい堅固な東京に作り変えていったのだろう。

ネギ畑の写真ネギ畑のうねはこんなに深いのか

ここからは、西に4.6km離れた、渋沢栄一の生家をめざして歩いていく。
見渡すかぎり田畑が広がり、その向こうに雪を抱いた山々が見える。
広大なネギ畑を両側に眺めながら進んでいく。
名物の「深谷ネギ」の畑のうねが、「深い谷」のようだ。
深谷のネギば、染料の藍の転換作物で、化学染料の普及によって、藍の生産が振るわなくなってからは、代わりに、ネギやゴボウが植えられた。
利根川の流域で砂地なので、生育が早く栽培にも適していたようだ。

尾高惇忠の生家の写真尾高惇忠の生家

やがて、「下手計(しもてばか)」という地名の場所に着いた。
ここからは、「青天を衝け」の初期の舞台、渋沢栄一の青春期ゆかりの場所に入っていく。
まず見えてきたのは、尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)の生家だ。
栄一の10歳上の従兄弟にして師匠で、栄一はこの人物から論語や、尊皇攘夷思想を学ぶ。
栄一に、「この人がいなければ今の自分はいない」と言わしめた人物で、のちに、官営富岡製糸場の初代所長になった。
生家の中は、残念ながら今は見れなかった。
係りの女性いわく、「コロナ対策」ということだ。
大河ドラマ「青天を衝け」のテーマ曲の指揮者、尾高忠明氏は、この惇忠の曾孫に当たるそうだ。
また、氏の祖父の奥さんが渋沢栄一の三女だったということで、渋沢栄一の曾孫でもあるということらしいから、このテーマ曲の指揮者は、まさにこの人を置いてほかにはいなかっただろう。

庚申塔の写真渋沢栄一もこの庚申塔を見ていただろう

のどかな里の道を歩いていく。
きっとこの道を、幼きころの渋沢栄一が、論語を学びに尾高家へと通ったにちがいない。
やがて、下手計の鎮守社・鹿島神社が見えてきた。
この社殿の扁額は、栄一の揮毫によるものだ。
そして境内には、高さ4.5mの尾高惇忠の頌徳碑(しょうとくひ)があり、石碑上部の題字は、徳川慶喜によって書かれた。
今の日本のかたちを作った人物たちが、この地方の小さな神社に筆跡を残していることがおもしろい。
都会の人間だけでなく、地方の人間までもが国づくりに参加していたことの証だ。

鹿島神社の扁額の写真鹿島神社の扁額は渋沢栄一の手によるもの
尾高惇忠の頌徳碑の写真尾高惇忠の頌徳碑、題字は徳川慶喜公筆
渋沢栄一記念館の写真渋沢栄一記念館

時刻は10:30am。
鹿島神社を抜けると、「渋沢栄一記念館」の目の前に出た。
平日の今日、駐車場にはすでに50台ほどの車が停まっている。
展示は、渋沢栄一の生い立ちから功績まで、わかりやすく網羅されていた。

渋沢栄一の等身大のアンドロイドの写真渋沢栄一の等身大のアンドロイド

大都市ではなく、なぜこのようなのどかな場所から、日本をかたちづくる人物が輩出されたのだろう。
記念館の方にうかがうと、深谷の町の特徴が少なからず影響したのではないかということだ。
深谷は、利根川と中山道の2つのルートで江戸とつながっていて、このあたりの人々は、日本の情勢や新しい文物に触れ、おもしろい人物と出会える機会も多かったということらしい。
「情報が運ばれるところでありつつも、情報の中心にいたわけではなかった」というところが、地方出身の僕には共感できた。
受け身で入ってくる情報だけでは、やがて物足りなくなるのだ。
そして、特に好奇心が旺盛な若者にとっては、書物であれ、人であれ、身の周りにはない新しいものに触れる機会を、「もっと、もっと」と、どん欲に求めたであろうから。

渋沢栄一の生家「中の家」の写真渋沢栄一の生家「中の家」
中の家の裏手の風景、遠くに浅間山が見える写真中の家の裏手の風景、遠くに浅間山が見える

ここから歩いて11分、渋沢栄一の生家「中の家(なかんち)」に行って、「なるほど、この環境が栄一という人物を育てたのか」と納得した。
「中の家」は、どこまでも家族的で、まるで田舎の祖父母の家に帰ったかのような温かさがある。
そして、家の裏手にまわれば、はるか遠くに雪をかぶった円錐系の浅間山、清らかな水の流れ、木々の緑、豊かな田畑、、、。
眺めていると、安らかな気持ちになってくる。
それぞれが慈愛に満ち、「心の温かさ」「優しさ」「常識的な善悪の判断」「良識」を自然なかたちで栄一に授けていったのだろう。

「論語と算盤」で、論語研究者の加地伸行氏が、「(この本に)一貫しているものは、人間の品位であり、その品位の美しさである。」と解説しておられて、僕も改めて読んで、同じように感じた。
 多くの事業をおこし、相当お金を稼いだはずなのに、あくまでもノーブルで、品格がただよう。そればかりか、なぜか気だての良い気さくな人物像が頭に浮かぶ。
 確かにその通りの人物だったのだろう。
 この場所がそのことを何よりも雄弁に物語っていた。

「青空をつきさす勢いで肘をまくって登り、白雲をつきぬける気力で手に唾して進む」

大河ドラマのタイトルの「青天を衝け」は、若き日の栄一が詠んだ漢詩の一節がもとになっている。
そのまっすぐで清々しい生き様が、ドラマでは描かれることだろう。

「中の家」からはコミュニティバスを使って深谷駅に戻った。
今日はここでひとまず東京に戻り、次回はこの深谷駅から中山道歩き旅を再開することにしよう。
 車窓に広がる青空の下、景色が風のように流れて、気づくと大都会の日常に戻っていた。

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