1. HOME
  2. みちびと紀行
  3. 【第37回】みちびと紀行 ~中山道を往く(大宮宿)

【第37回】みちびと紀行 ~中山道を往く(大宮宿) みちびと紀行 【第37回】

山田いちの墓がある廓信寺の写真山田いちの墓がある廓信寺

浦和宿の本陣跡から中山道を歩いて約20分ほど、北浦和駅の先、「廓信寺」というお寺の前に、「紅赤(べにあか)の発祥地」があった。
「紅赤」というのはサツマイモの品種名で、「サツマイモの女王」と呼ばれているらしい。
明治31年、この付近に住んでいた「山田いち」という農家の主婦が、青木昆陽によって江戸中期以降広められた「八房(やつふさ)」というサツマイモの品種から、偶然、鮮やかな紅色のイモ7個を発見する。
さっそく試食してみたところ、ホクホクして美味しい。
翌年試作して、市場に持ち込んだところ大好評で、苗を求める農家が続出し、近所に住む甥が、その種苗生産を手伝って、たちまち「紅赤」が広まったということだ。

とはいえ、そもそもこの山田いちさんの「観察力」がなければ、紅赤は存在すらしていなかった。
彼女は4男4女の子持ちで、夫が畳職人で外出しがちなため、ひとりで畑仕事をしていたらしい。
案の定、もともと凝り性で、研究熱心だったそうだ。
世界中の発見は、こういう「凝り性」の人たちにゆだねられている。
「紅赤」は、川越で大々的に栽培され、江戸時代から現代まで続くロングセラーのスイーツ「焼きいも」を広めることにもなった。
そのホクホクした食感から栗に比せられ、昔の焼き芋屋さんは、「栗(九里)より(四里)うまい十三里」と看板に書いていたそうだ。
ちなみに焼き芋にもトレンドがあって、2000年頃、鹿児島県種子島の「安納いも」が関東で展開されて以来、ねっとりした食感のものがもてはやされていたのだけれど、近頃はまたホクホク食感の焼き芋が復権しつつあるとのことだ。
「さつまいもダイエット」というのが最近流行ってきているようで、調べたら、ねっとり系よりもホクホク系の方が低カロリーらしいから、それとの関連もあるのかも知れない。
サツマイモの奥深さを中山道で知った。

さいたま新都心駅前の写真さいたま新都心駅前
まさに新都心!の写真まさに新都心!

それにしても暑い。天気は快晴、気温は22℃だ。
2月の下旬のぽかぽか陽気で、街道脇の梅は満開になっている。
やがて、けやきの並木が見えてきて、さいたま新都心駅に着いた。
来るたびに街がアップグレードしていて、ますます「都心」の風格を備えつつある。

氷川神社一の鳥居の写真氷川神社一の鳥居

さいたま新都心駅から中山道を5分ほど歩けば、そこはもう武蔵国一之宮、氷川神社の「一の鳥居」だ。
ここから拝殿まで、約2km、日本一長い参道が続く。
かつての中山道は、この参道を通り、神社の前で折れて迂回していたが、寛永5年(1628年)に、大宮宿の人々が西の原野に新道を開き、宿場をそこに移した。
参道を通りながらも、拝殿にお参りせずに通過するズボラな旅人が多かったらしく、「神に対して恐れ多い」ということが理由のひとつだったようだ。
「お参りしない人はどうぞこちらへ」という感じだっただろうか、意外にも現代人の感覚に近い気がして、江戸時代のこの宿場の人々にちょっとした親近感を覚えた。
大宮宿は、日本橋から数えて4番目の宿場町で、もともとは、先にできていた浦和宿と上尾宿の間に、もうひとつ宿場を作った方が便利だということでできた。
当時、江戸から1日で歩く距離としては、大宮までが限界だと言われていたようだ。
一の鳥居のあたりには、日本の近代化を担った製糸会社、片倉工業の工場がかつてあって、今はその跡地に、「コクーン(繭)シティ」という商業施設ができてにぎわっている。
ここで作られた生糸は横浜港で船積みされ、「氷川丸」という船でアメリカのシアトルまで運ばれていたそうだ。
その氷川丸は今も、横浜の山下公園に係留されている。

氷川神社は、宮中の四方拝(元日に宮中で行われる儀式)で遙拝される一社で、伊勢神宮に次ぐ社格の官幣大社だ。
神社の創建は第5代孝昭天皇の頃で、約2500年の歴史があると伝えられている。
主祭神は、須佐之男命、稲田姫命、大己貴命と、国津神の系統だ。

日本一長い参道を歩く写真日本一長い参道を歩く

立派な参道だ。
車道を分離するように、ケヤキを中心とした並木がまっすぐに伸びている。
車の通行にびくびくすることもないから、歩いている人々もどこかしら優雅さを漂わせている。
悠々と歩ける環境を作るということは、心に余裕を生むものだ。
それが経済活動にもつながるのだろう。
参道脇にはおしゃれなカフェがいくつもできていて、そのすべてが繁盛している。
おしゃべりに夢中な人、パソコンに打ち込んでいる人、読書をする人、それぞれ思い思いに時間を過ごしていて、それを眺めている僕も、豊かな時間を共有している気分になった。

さいたま市の側まで海があった写真さいたま市の側まで海があった

参道の脇に、「さいたま市立博物館」があった。
閉館時間の4:30pmまで、まだ30分ほどあったので寄ってみる。
主に小中学生の来場者を想定しているようで、説明もやさしくわかりやすかった。
縄文時代の関東の地図があって、大昔はここに「奥東京湾」と学術的に呼んでいる海があったようだ。
奈良の「山の辺の道」を歩いた時に、奈良盆地がかつては巨大な湖だったことを知ってびっくりしたけれど、氷川神社ができた2500年前は、ここにも似たような風景があったのかもしれない。

(参照:【第22回】みちびと紀行~山の辺の道を往く)

戦艦武蔵の碑の写真戦艦武蔵の碑

長い参道もいよいよ終わり、「三の鳥居」をくぐって氷川神社の境内に入ると、左前方に「戦艦武蔵の碑」を見つけた。
戦艦武蔵は、当時の世界最高技術を駆使して、日本が建造した最後の戦艦だ。
なぜここにその碑があるのだろう。
説明を読んで、はじめて「艦内神社」という言葉を知った。
戦艦武蔵には、この氷川神社が分祀されていたのだ。
分祀というのは、ある神社の神霊を分けて、新設した別の神社に祭ることを言う。
あたかも、ろうそくの火を他のろうそくに分けていくように。

氷川神社の拝殿の写真氷川神社の拝殿

日本には船霊(ふなだま)信仰というものがあって、航海の安全を願って船に守護神を祭るならわしがある。
戦艦のみならず、貿易船、漁船など、民間の船もそうだ。
横浜港の「氷川丸」にも、この氷川神社が分祀されている。
日本海軍は、伝統的に艦艇の名称に地名を用いてきたから、それぞれの艦艇名にゆかりのある土地の神社を「艦内神社」として分祀してきた。
「武蔵」には、武蔵国一之宮の氷川神社が、「安芸」には安芸国一之宮の厳島神社が、といった具合だ。
戦艦の場合は、ことさらに命を賭して乗船するわけだから、相当念入りに祭礼を行い、心を鎮め、死の恐怖を克服しようとしたに違いない。
レイテ沖海戦で海に沈んだ戦艦武蔵の艦内にあった氷川神社は、この碑を建てることによって大元の「火」に還ったのだろう。

安政七年の道しるべの写真安政七年の道しるべ

氷川神社を出て再び中山道を歩く。
時刻はちょうど5:00pm。
近代的な街並みに取り残されたように、古い石の道標があった。
安政七年に建てられたこの石碑には、「大山 御獄山 よの 引又 かわ越道」と彫られているらしい。
かつては、ここから西に、神奈川県の大山まで続いている道があったようだ。
案内板には、「このあたりでは、男子が15〜20歳になると一人前と見なされて、村の大人と一緒に大山参りをした」と書かれている。
大山までの約80km、当時の若者は、道中でいったいどんなことを大人から仕込まれたのだろうか。
想像すると、なにやら青春時代の思い出がよみがえってきてニヤニヤする。

超絶の写真超絶
モノが違うの写真モノが違う
人生に食パンをの写真人生に食パンを

夕日が落ちた。
けれど、街は明るく、まだまだ歩ける気がしたので、さらに北の宮原駅まで行って、今日の歩き旅を終了することにした。
面白いものを見逃すまいと、きょろきょろ見ながら歩いていると、前方になにやら派手で「セクシー」なお店が見えてきた。
まずは注目を集め興味を引くことが宣伝の王道だとすれば、この店は満点をとれるだろう。
「超絶」「モノが違う」「人生に食パンを」
この三段落ちのようなメッセージに心が踊った。
買わなかったけれど。

5:40pm、宮原駅に着いた。
ここで、中山道歩き旅第二日目を終える。
今朝スタートした志村坂上からは、所要約8時間、歩数は41,990歩、距離にして25.7kmだ。
明日は、この宮原駅から中山道歩き旅をはじめよう。
帰りの電車の中で、急におなかが空いてきた。
「あのパン、買っておけばよかったな。」

ページトップ