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【第35回】みちびと紀行 ~中山道を往く(蕨宿) みちびと紀行 【第35回】

志村坂上駅前の写真志村坂上駅前、中山道はみずほ銀行の右横から続いていく

中山道歩き第2日目は、昨日の続き、都営三田線志村坂上駅からスタートする。
時刻は8:50am、今日の目標は大宮まで。距離にして約20kmだ。
天気にも恵まれて2月の下旬とは思えない暖かさ、春はもう近い。

道標と庚申塔の写真富士・大山道との分岐にある道標と庚申塔

志村坂上駅の先からは大通りを離れて、中山道は住宅街の中に続いていく。
本当にここは京都まで続いていたかつての街道だったのだろうか。
住宅地を歩いていくと、ある区画のゴミ収集所になっている角に、石の道標と庚申塔、そして説明版が、電信柱の後ろに隠れるようにあるのを見つけた。
説明版には「富士・大山道の道標と庚申塔」と書いてある。
ここは、富士山や神奈川の大山に通じる道との分岐点で、左に進めば富士山まで達することができたのだ。
道標は寛政4年(1792年)に建てられたもので、文字は判読できなかったが、正面には「是より大山道ならびにねりま川こへ(川越)みち」と書いてあるとのこと。

住宅街に残された昔の面影の写真住宅街に残された昔の面影

さらに先へ進むと、こんどは「清水坂」と彫られた新しめの道標が現れた。
説明板によれば、ここは中山道最初の難所といわれていた場所で、大きく左右に曲がっていたため、中山道で唯一富士山が右手に見える名所だったそうだ。
板橋宿と蕨宿の中間に位置する「間の宿(あいのしゅく)」でもあり、昭和30年代までは旧街道の趣を残していたが、地下鉄三田線の開通による都市化で、すっかりその姿を変えたとのことだ。
街道歩きの旅人からすれば残念なことではあるけれど、街道も「生きもの」みたいなもので、人々の生活に密着したものであれば、なおさらそれに合わせて変化するものだから仕方ない。
むしろ、こうして旧街道の面影を生活圏の中に残してくれていることをありがたく思う。

荒川を渡るの写真荒川を渡る

再び大きな通りに戻って進むと、やがて荒川にさしかかった。
こうやって歩いて橋を渡ると、大河川であることを実感する。
右手を見ると、新幹線が、このあたりではまだ加速しないのか、ゆっくりと橋を渡っていった。
ボートのエンジンの音がして下を見ると、水上スキーヤーが颯爽と川面をすべっていく。
ぽかぽか陽気も手伝って、今は初夏であるかのような錯覚にとらわれる。
江戸時代、ここには防衛の観点から橋が架かっておらず、「戸田の渡し」と呼ばれた渡船で川を渡った。
渡し船の数は、天保13年(1842年)には13艘もあったらしく、当時の交通量の多さが想像できる。
江戸時代といえば、鎖国ばかりに注目して、移動制限も厳しく人の行き来も相当限られていたかのように思われるけれど、国内の移動も経済活動もなかなか活発だったのだ。

荒川水上スキーヤーの写真荒川水上スキーヤー
戸田渡船場跡の写真戸田渡船場跡
団地の中の写真団地の中を突っ切っていく

荒川を渡ると、中山道は、団地の中を突っ切っていく。
ここに住むいったい何人の人が、この道が中山道であることを知っているのだろう。
「今、中山道を歩いているんです」と言ったら、きっと奇異な目で見られるに違いない。

ここを右に入ると蕨宿の写真ここを右に入ると蕨宿

そんなとりとめもないことを考えているうちに、「蕨宿」の入り口に着いた。ガソリンスタンドの右側から宿場町に入っていく。

蕨市立歴史民俗資料館分館の写真蕨市立歴史民俗資料館分館

舗道が石畳風になって、町全体でこの街道沿いの面影を残そうとする意気込みを感じる。
やがて左手に「蕨市立歴史民俗資料館分館」と書かれた立派な屋敷が見えてきた。
中に入ると、紅白の梅の花が咲いている美しい日本庭園がひろがっている。
ご夫婦だろうか、咲き誇る梅の木をバックに、交互に写真を撮っていて、その風景が、さらにこの庭園を幸福感で満たしている。
この屋敷は、織物の商家のものだったようで、建物内には機織り機が展示されていた。
桃の節句が近いことから、代々大切に飾られてきたであろう雛人形も展示されている。
「日本人形には人を守る、健康を守るという意味があります。コロナで不安なこの時期、人形を見て癒されて下さい」とメッセージが添えられていて、その温かな心遣いに癒された。

電話ボックスの写真屋敷の中に電話ボックスがある。近隣の人も利用していたようだ。
日本人形の写真添えられたメッセージにほっこりする。
本陣の跡の写真本陣の跡が蕨市立歴史民俗資料館になっている

ほっこりとした気分でこの「資料館分館」を出て先に進むと、今度は堅固な建物の「蕨市立歴史民俗資料館」があった。
かつての蕨宿本陣の跡地にあり、豊富な史料が展示されていて、勉強になった。
この蕨宿のあたりでは、江戸時代末期から綿織物業が盛んになり、特に「二タ子織(後の双子織)」という縞柄の織物が江戸で大評判で、明治期にかけて綿織物の商家が何軒もあって栄えたようだ。

蕨市のまちの歴史年表をながめていたら、「昭和21年(1946年)、第1回成年式(成人式)」開催」と書かれていた。
この蕨市は、地域の新成人が一同に会して行う今のかたちの「成人式」の発祥の地だったのだ。
敗戦により、民衆の心が虚脱状態にあった当時、次代を担う青年たちに希望を持ってもらい励ます目的で、当時の埼玉県蕨町青年団長の高橋庄次郎(のち蕨市長)が企画して実現したそうだ。
若者は「未来」そのものだ。若者が元気かどうかで、その国の将来は決まる。
そして若者は、期待されることによって潜在能力を開花させ、いっそう活躍するものなのだ。
例年「成人式をすべきかどうか」ついて論争が起こっているけれど、「どのようにすべきか」ということを考えた方がいい。
「若者に未来を託す」という原点の意義に立ち戻って、そのメッセージが伝わる、心のこもった成人式のあり方を考えていけばよいのではないだろうか。
若者は、期待をかけられ任されることによって、まさに「成人」の仲間入りをするのだから。

旧街道特有のくねった道の写真旧街道特有のくねった道が続いていく
焼米坂の写真焼米坂にさしかかる

蕨宿を出て、住宅街を抜けると、やがて中山道は、焼米坂(やきごめざか)にさしかかった。
ここには昔、「焼き米」を旅人向けに売っていた店があった。
「焼き米」とは、携帯食のようなもので、米を籾殻がついたまま炒った後に殻を取り除いたもので、旅人はこれをそのまま、スナック菓子のようにポリポリ食べたり、お湯に浸してふやかして食べていたようだ。
昔、どこかの民俗資料館で、典型的な江戸時代の旅人の旅行用具一式と旅姿を見たことがあって、そのシンプル化、小型化へのあくなき探求には目を見張った。
こういうことが、食品やら電子機器やら衣料品まで、日系メーカーの技術の伝統として受け継がれているのだろう。
「旅をする」という非日常は、新しいアイデアを必要とするのだ。

歩道橋の上からの写真歩道橋の上から、これまで辿ってきた道のりを思う

焼米坂を上りきれば、浦和宿はもう近い。
時刻はちょうど正午、さて、何を食べようか。
焼き米との連想で、美味いごはんの和食の一択だと即決。
さあ、美味い店を探すぞ!
そんなことを思いながら、坂を上っていった。

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