【第28回】みちびと紀行 ~山の辺の道を往く(白河院の謎) みちびと紀行 【第28回】
石上神宮(いそのかみじんぐう)まで山の辺の道を歩いてきて、わかったことがある。
我々の祖先は、気遣いや調整ごとばかり繰り返していた人たちなのではないかと。
国としてまとまる過程で、当然争いごとはあったはずなのに、敗者となった側について悪しざまに語られるわけでなく、勝ち残った側についても、それを誇るような痕跡はない。
天皇といえば、力が不足していたり、あからさまに悩んだり、そのつど、神々や人々の協力を得て乗り切るという筋立てで、実に控えめに記されている。
言うなれば、クラスメイトから学級委員長に推薦されるタイプだろう。
ひょっとして、事実は違ったのかもしれない。
けれど、少なくとも、公的な歴史書である記紀においても、民間の伝承においても、理想とされたリーダー像は、強力な力でねじ伏せるのではなく、周囲の力に頼り、神輿に担ぎ上げられる存在だったのだ。
思えば、日本の民話でも、スーパーヒーローは登場しない。
桃太郎でさえ、きびだんごで手なずけた、犬と猿とキジの協力がなければ、鬼退治もできないのだから。
そして、歴代の天皇たちには、必ずその後見役と取り巻きの一族が控えていて、時の天皇を盛り立て、あるいは利用してきた。
太陽神の血統である天皇に付き随う影のように、あるいは、日光を浴びて繁茂する植物のように。
転々とする都(出典:奈良文化財研究所)
古代から平安京に至るまで、歴代の天皇は遷都を繰り返していた。
その遷都の意味とは、果たしてなんだったのだろう?
なぜ景行天皇は、晩年、滋賀県大津の穴太(あのう)の地に宮殿を築いたのだろう?
歴代の宮殿があった、この山の辺の道から外れて、飛鳥、藤原京、平城京、そして平安京へと、しだいに遠ざかっていったのはなぜだろう?
僕にはそれが、しがらみにまとわりつくものからの、逃避行のように思えた。
あたかも、日の光を失ってあわてふためく高天原の神々をよそに、天の岩戸に閉じこもった天照大神のように。
石上神宮のホームページを見ていて、ある箇所がなぜか引っかかった。
「平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、云々」と書いてある。
白河天皇といえば、NHK大河ドラマの「平清盛」では、伊東四朗が怪演をしていて、もうそのイメージそのものだ。
武士の時代を拓いた平清盛、白河院のご落胤説もある(出典:呉市HP)
院政を敷いて、それまで藤原摂関家に翻弄されてきた天皇家の力を大いに盛り返し、逆に藤原一族を弱体化させて、権勢を欲しいままにしてきたお方じゃないか。
これはいったいどういうことだろう?
天皇の宮殿と、天皇家を取り巻く一族の変遷は、大ざっぱにいえば以下の通りとなる。
- 三輪山一帯 / 物部氏
- 飛鳥 / 蘇我氏
- 平城京 / 藤原氏
- 平安京 / 藤原氏の独占状態
そして、つる性植物のフジのように、からみつく藤原一族によって息も絶え絶えだった天皇家を復活させるために、白河天皇が頼ったのが、神武天皇時代から影のように寄り添い、藤原氏の昔日のライバルでもあった物部氏の「呪術」だったのではないだろうかと。
おそらく白河天皇の御代には、毎日のようにここで呪文が唱えられたことだろう。
「一二三四五六七八九十布瑠部由良由良止布瑠部 (ひふみよいむなやことふるべゆらゆらとふるべ)」と。
そして、白河天皇は「治天の君」である白河院となり、実権を天皇家に取り戻した。
いや、そればかりではない。
物部の呪文はさらなる効力を発揮して、藤原摂関家は弱体化してしまった。
もものふ(武士)の台頭によって!
「白河院」と聞いて、僕には思い当たるところがあった。
熊野までの道のりを歩いてお参りする「熊野詣で」が盛んになるのは、ちょうど白河院の頃からなのだ。
そして、熊野といえば、神武天皇の軍団が毒気に当たってことごとく倒れた時に、高倉下(たかくらじ)という謎の人物があらわれ、彼が携えてきた、この石上神宮の御神体、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)が神武軍を目覚めさせ、勢いを盛り返したというエピソードがある。
高倉下とは一体何者だ?
調べてみて、点と点がつながった。
高倉下は、別名「天香山命(あめのかごやまのみこと)」、神武天皇に国を譲ったニギハヤヒの息子で、物部氏の祖神のウマシマジの異母兄だったのだ。
この天香山命を主祭神とする新潟県の弥彦神社では、今でも宮中や石上神宮、そして島根県の物部神社と同じく鎮魂祭(みたましずめのまつり)を執り行い、物部の呪文を唱えている。
さらに、この高倉下の子孫は「穂積」姓を名乗っていて、なんと熊野三山のひとつ、熊野速玉大社の初代禰宜(ねぎ)が、この穂積氏だった。
熊野が「よみがえりの聖地」と呼ばれるのは、この経緯があるからかもしれない。
毒気からよみがえった神武天皇、藤原の縛りを断ち切って天皇家をよみがえらせた白河天皇、そして布都御魂の剣と物部の呪文、、、。
さて、「山の辺の道」歴史ミステリー歩きも、そろそろ終わりに近づいた。
振り返れば、謎だらけ。
そしてわかったことといったら、僕らはあまりにも自分の国の成り立ちについて知らない、知らされていないということだった。
今になって思う。日本人、日本の国について考え続けてきた昭和の二大作家、川端康成と三島由紀夫が、死を前にしてなぜこの地を訪れたのかと。
ここには日本の国のルーツ、日本人の原型が、謎に包まれながらも確かにあったのだ。
桜井の海石榴市(つばいち)から石上神宮までの約15kmの山の辺の道。
路面も道標も案内板もよく整備されていて、お陰様で快適に歩いて来れた。
ただ、地元のみなさま、観光協会のみなさま、ひとつだけリクエストがあります。
食べるところを増やしてください。
無人販売でもいいので。
特に柿のシーズンは!
追記:石上神宮から先は、北上して奈良に達する「北・山の辺の道」もありますよ。
(出典:近鉄てくてくマップ)