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【第27回】みちびと紀行 ~山の辺の道を往く(物部の呪術) みちびと紀行 【第27回】

急な上り坂の写真急な上り坂、石上神宮はもうすぐだ

天理観光農園を過ぎると、山の辺の道は、とたんに険しい坂道になっていった。
ここまで、山裾の道とはいえ、わりとなだらかだったけれど、ここにきて勾配がきつくなった。
近鉄てくてくマップを見ると、この石畳の上り坂を過ぎれば、ゴールの石上神宮(いそのかみじんぐう)まではあともう少しだ。
草木が茂ってトンネルのようになっている道を抜けると、「内山永久寺跡」という場所に出た。

内山永久寺跡の写真内山永久寺跡、徹底的に破壊され、もう跡形もない

古ぼけた案内板には、ここにはかなり大きなお寺がかつてあって、明治期の「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」によって廃寺となった、とある。
それにしても、跡形もないじゃないか。周りを見渡すと、ただの農園にしか見えないぞ。
調べてみると、この内山永久寺は、平安時代に鳥羽天皇の勅願で創建され、大和国では、東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ待遇を受けるお寺で、その規模と伽藍の壮麗さから、江戸時代には、なんと「西の日光」とも呼ばれていたとのこと。にわかには信じがたい。
街道を歩いていると、「廃仏毀釈」の跡には時々出くわすことがあるけれど、どんな事情があったにせよ、ここまで痕跡がないのは初めてだ。

もしここに外国人がやってきて、「ここは何があったところですか?」「廃仏毀釈とはなんですか?」と訊かれたら、何と説明しようかと考えてみる。
その場合、これだけは伝えよう。
「本当は、あらゆる尊いものを敬うことが神道、いや日本人が本質的に大事にしてきたことのはずなんですがねぇ」と。
意地悪にも、「でも破壊されたんですよね」と皮肉まじりで言われたら、こう返そう。
「ええ、変革期にはドサクサに紛れてこういう変なことが起こるものです。そして失った後ではもう遅いんですよ。あなたの国でも思い当たるところはあるかも知れませんね」と。

石上神宮境内のにわとりたちの写真石上神宮境内のにわとりたち

水鳥が浮かんでいる池を右手に見ながら進んでいくと、石上神宮の境内に入った。
なんと、放し飼いのニワトリが何匹もうろちょろしている。
僕はどうもニワトリが苦手なので、そそくさと写真をとって立ち去った。
石上神宮にも、大神神社(おおみわじんじゃ)同様に、意外に参拝客がいた。
やはり七五三シーズンだからだろう。
いくらコロナ禍でも、いや、それだからこそなのか、子どもたちの健やかな成長を祈る神事は健在だ。

拝殿の写真拝殿が御神体の方向を向いていない不思議なつくり

うっそうとした森に囲まれた拝殿に向かうと、何やらピリピリと神秘的な空気が張り詰めている。
石上神宮の御神体は、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)という謎につつまれた聖剣、そしてこの神宮こそ、古代史で最大の豪族だった物部氏が代々祭ってきた場所だ。
布都御魂剣が記紀で登場する場面は二度ある。
一度目は、古事記の国譲りの場面で、高天原からタケミカヅチが降り立ち、オオクニヌシの前で剣を海の上で逆さまに刺し、その切っ先の上であぐらをかいて威嚇する場面。この剣が布都御魂剣だと言われている。
どういうわけか、日本書紀では、経津主神(フツヌシノカミ)という人格神となって登場し、最初に国譲りの交渉役として指名されるのだけれど、タケミカヅチが「勇者は経津主神だけではない、私も勇者だ」と割り込み、ともに出かけるという筋書きになっている。この違いは興味深い。タケミカヅチは藤原氏の祖神だ。
そして二度目は、神武天皇の東征の際に、神武軍が熊野山中で毒気にやられて生気を失った時に、高倉下(たかくらじ)という者がやってきて、この霊剣を神武天皇に捧げ、その霊力によって神武軍を覚醒させ、活力を与えて敵を打ち破ったとされる場面だ。

とても複雑なことに、神武天皇が高天原の神々から「大和を治める者」として指名を受けて、日向(ひむか)の国から大和の地に到着してみたら、そこにはすでに、高天原から別の神が降りていて、大和の地を治めていた。
これが、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)という物部氏の祖先だと言われている神で、このニギハヤヒに従っていた長髄彦(ながすねひこ)という人物が相当強く、神武軍はさんざんに打ちのめされる。
戦況を転じるために、神武軍は大和の背後から攻める作戦に出て、熊野方面から進軍するのだけれど、その過程で、この高倉下や、布都御魂の剣や、地方の豪族を味方につけて、大和に到達する。
けれど、そこでは大きな戦闘が行われたわけではなく、邇芸速日命、あるいはその息子の宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)が、神武天皇を天孫だと認め、彼に大和の国を譲るのだ。

またしても国譲りの場面だ。 オオクニヌシの次にニギハヤヒまでもが、それまで治めてきた国を、大規模な戦いではなく、「話し合い」によって譲っている。
しかもその両方の場面にフツノミタマ、あるいは人格神の経津主神が登場している。
この似た話のループはなんなんだろう?
古事記も日本書紀も、天皇家の正当性を明らかにするための公的な史書なわけだけれど、一方の「国を譲った側」についてもっと調べれば、古代史のかなりの謎が解けてくるんじゃないかな?
そんな直感があって、このニギハヤヒを祖先とする物部氏と、この一族が崇拝する石上神宮を調べてみた。
調べて鳥肌が立った。古代史最大のミステリーとは、このことじゃないか!

古代最大の豪族、物部氏が担っていたことは大きく分けて二つあった。
一つは、軍事。
元々は、鉄器と兵器の製造を担っていた一族で、この石上神宮にはたくさんの兵器が貯蔵されていて、神社だけでなく、武器庫としての役割もあったらしい。
武士を意味する「もののふ」という言葉も、この物部氏に関連するとのことだ。
そしてもう一つは、祭祀・呪術。
「物の怪(もののけ)」の「もの」とも関連しているのかもしれない。
物部には、「弓の弦を鳴らす」という、知る人ぞ知る呪術があったらしい。
万葉集に元明天皇の有名な歌がある。

ますらをの鞆の音すなり 物部の大臣(おおまえつきみ) 盾立つらしも
(弓の音がする。物部(石上)麻呂が戦いの準備をしているのであろうか?)

物部氏は、物部守屋の代に蘇我氏との崇仏論争で敗れて、一旦勢いが削がれたものの、その後再び盛り返し、一族の石上麻呂(いそのかみのまろ)が順調に出世して、元明天皇の御代には最高位の左大臣になっていた。
ちなみに、彼のライバルは、藤原不比等(ふじわらのふひと)だった。
そして、どういう経緯があったのか、元明天皇は、物部の本拠地からさらに遠のくように奈良に遷都してしまい、この石上麻呂は旧都の藤原京の留守役として残されてしまうのだ。
この万葉集の歌には、置いてきぼりにされた物部氏の軍事だけでなく、呪術をも恐れていることが込められているらしい。

石上神宮の祭事を調べていたら、鎮魂祭(みたましずめのまつり)という、宮中で歴代の天皇が現在に至るまで行ってきた祭祀を、ここでも行っているらしい。
そしてこの祭祀を行うのは限られた神社のみで、石上神宮のほかには、越後国一ノ宮の弥彦神社、そして、石見国一ノ宮の物部神社だという。
しかも、宮中においても、これら3つの神社でも、唱えられる呪文は同じ。

一二三四五六七八九十布瑠部由良由良止布瑠部
(ひふみよいむなやことふるべゆらゆらとふるべ)

これ書いててバチが当たらないかな。ちと怖い。

ウマシマジの写真
ウマシマジ 出典:菊池容斎 - 新日本古典籍総合データベース『前賢故實』

物部神社って行ったことないけど、どんなところなんだろう?
御祭神を恐る恐る調べてみたら、やっぱりそうだった。
摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)、ニギハヤヒの息子だ。
それにしても不思議な名前だ。「美し」あるいは「上手し」、「マジ」ということか。
「マジ」って何だ?
調べたら、「呪い(まじない)」の語源だった。
そして、ウマシマジの神像を見て、鳥肌が立った。
大きな弓を抱えているじゃないか!
おいおいマジか、、、。

謎が謎を呼ぶとはこのこと。
物部は今でも、宮中の祭祀という形で、天皇家に影のように付き随っていた。

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