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【第15回】みちびと紀行 ~東海道を往く(平塚宿~小田原宿) みちびと紀行 【第15回】

ひとりで歩くということ

相模川を渡っているときに、急に右足にちょっとした痛みを感じた。
焦って早足になって、気付かぬうちに脚を酷使していたのだろうか。
馬入橋を渡ったあとで、しばらく公園で休んだ。

ひとりで歩くということは、自分自身への問いかけでもある。
休憩したいのか、先に行きたいのか、あるいはここで歩みを止めるのか、、、。
それはすべて自分自身が決めることで、自分が責任を負う。
「日暮れまでに小田原宿に到着する」という目標自体をなかったことにしても、誰に何を言われるわけでもない。
ただ、やはり僕は、どんなに時間がかかったとしても、小田原宿まで歩くことにした。
自分自身は裏切れないから。

ひとりで歩く時には、一定の時間の間隔を決めて、休憩するようにした方がいい。
ときどき「ああ、これをフロー体験というのかな」と思うくらいに、気づいたら無心に歩いてしまっていたことがあるけれど、骨や筋肉は確実に酷使されている。
誰かと歩いていれば、それに気付かせくれるけれど、自分ひとりだと、ペース配分は自分の思い通りで、ここに落とし穴がある。
骨や筋肉の痛みは、自分自身への最後のサインみたいなものだ。
ひとりの時は、どうしても主観的に歩くことになるので、時々気づいて、客観的に自分を見つめることも必要なんだろう。
そう思っていたら、あるアフリカのことわざが頭に浮かんだ。

早く行きたければ、ひとりで行きなさい
遠くへ行きたければ、誰かと行きなさい

復興のまち、平塚宿

公園でしばらく休んでいたら、右足の痛みも引いてきた。
雲行きが怪しくなってきたけれど、焦らずに、ここからは注意深く足を運ぼうと決める。

浮世絵に描かれた平塚宿の写真浮世絵に描かれた平塚宿

ほどなくして平塚の街に着いた。
平塚は、どうやら平家一族と関係があるらしい。
「平塚の塚」というのがあって、ここに葬られている人物が、平真砂子という平氏一門の人だったから。
それ以外には歴史的なものを見かけず、ここが本当に宿場町だったのか、その気配が希薄だった。
この町は、終戦直前の1945年7月の空襲で、焼け野原になってしまったのだ。
平塚にはかつて、約38万坪もの敷地を有する海軍の火薬廠(かやくしょう)があって、米軍の攻撃目標になってしまった。
歴史的な宿場町は焼けてしまったわけだけれど、このあとの歴史は、代々言い伝えられるべきものだ。
その後平塚市民は、この町をなんとか復興しようと立ち上がり、「平塚七夕まつり」を始めたのだ。

七夕のキャラクターの写真七夕のキャラクターが街の隅々にある

今では、「日本三大七夕祭り」として、本家の仙台に次いで不動の地位を築いている。
僕はこの、「復興する力」こそが、日本人の強さなんじゃないかなと思っている。
そして、「さあ、これからは復興だ!」と動き出す時には、祭りはとっても大切な役割を果たす。
人びとの心とエネルギーをひとつにするのだ。
残念ながら、今年はコロナの関係で、七夕祭りは中止になってしまったらしい。
けれど、このコロナ禍が明けたあとは、盛大な七夕祭りが行われるにちがいない。

高麗山の写真高麗山が真正面に見えてきた

そう思いながら歩いていたら、目の前に、おはぎみたいな山が見えてきた。
平塚宿の浮世絵にも描かれた高麗山だ。
江戸の昔とまったく同じ存在感のある形。
「あなたがいるのは、確かに平塚ですよ」と、教えてくれたような気がした。

大磯宿、吉田茂邸にて戦後の日本を思う

旧街道の写真旧街道は、右側の松並木、化粧坂へとつづく

東海道は、高麗山の南側を通ったあと、国道1号線から分かれて、化粧坂(けわいざか)の松並木となって西に向かってのびていく。
ここからさらに進んでいくにつれ、海の気配が増してくる。

大磯宿を通る東海道は、国道1号線の車道によって完全に「上書き」されてしまった。
けれど、目を凝らしてみれば、道の両側に石碑やら道祖神が点在していて、確かに江戸時代からここを東海道が通って、旅人が行き交っていたんだろうと想像できる。
ここには、日本三大俳諧道場のひとつ、「鴫立庵」があるけれど、建物の中を見学せずに通り過ぎてしまった。
「日暮れまでに小田原宿に着く」という目標を優先させたかったのだ。
空を見ると、雲行きも怪しくなってきた。

大磯の松並木の写真大磯の松並木

見事な松並木を過ぎて、しばらく行くと、旧吉田茂邸の看板が現れた。
「確か数年前に火事で焼けてしまったんだよな」と思いながら、「では、」と通り過ぎようとすると、「おい、寄ってけよ!」と言うかのように、雨がぼとぼと降り出した。
周辺には雨宿りする場所がなかったので、とりあえずここで休憩して雨をやり過ごすことにした。
結果として、ここに立ち寄って幸運だった。
確かにここは、寄るべきところだった。

旧吉田邸の写真旧吉田邸に入る

旧吉田茂邸は、庭園は無料で、料金(大人510円)を払えば、邸宅の中が見学できる。
邸内の南側からは相模湾が見渡せ、西側には、箱根の山々や富士山が見える。
そういう地理的な眺望と、昭和の海千山千の政財界の要人が足繁く訪問したことから、吉田茂自身が、この邸宅のことを「海千山千荘」と呼んだ、と案内にあった。

邸内西側から富士山の方向を望む写真邸内西側から富士山の方向を望む

吉田茂と言えば、日本の戦後処理を行い、国際政治における日本の方向性を定めた人物だ。
彼が成し遂げたことの功罪については、まだまだ評価が定まらないことも多いようだ。
けれど、この国の存亡の危機にあって、「火中の栗を拾った」その勇気と胆力は、尊敬されるべきことだし、死後、国葬されるに値することだと思う。
僕は、歴史を語るときには、その当時の考え方や、その考えに至らしめる状況や背景を理解したうえで語るべきだと考えている。
吉田内閣が誕生した時の状況について改めて調べてみると、重大なことを見過ごしていたことに気づいた。
そう、日本国民は、このとき飢餓の危機に直面していたのだ。

終戦時、昭和20年(1945年)度産のコメは、天候不順に加えて空爆による生産の障害があって、前年比30%の減産となっていた。
しかも、敗戦によって台湾、朝鮮半島、満州からの供給も止まり、政府の権限も失墜して、農家も安い価格でのコメの供出を渋っていたのだ。
国内では、「1,000万人餓死説」も流れたようだ。
さらに、世界に目を向けると、日本だけ食糧事情が悪かったわけではなく、ヨーロッパでも飢餓の兆候があり、中国、インドでは、実際に飢餓が発生した。
こんな状況下で、普通だったら敗戦国の日本に回ってくる食糧など期待できないだろう。

この危機の中で、連合国軍最高司令官のマッカーサーは、吉田茂をGHQに招き、「自分が最高司令官であるかぎり、日本国民は一人も餓死させない」と約束したと記録にある。
この少し前に、昭和天皇からマッカーサーに宛てて、「皇室の御物の中から国際的価値のあるものを差し出すから、これを食糧に代えて、国民を餓死から救いたい」とのお言葉があったことが、マッカーサーを感動させたというエピソードも記録に残っている。
そして約束通り、GHQは輸入食糧を放出した。
すぐさま、連合国側からは、この米国から日本への食糧供給に反対表明がなされた。
けれど、マッカーサーはそれを断固拒否し、食糧の供給をやめることはなかった。
日本国民は最悪の時期を乗り切ったのだ。

ここからわかることは、マッカーサーは絶大な権力を持っていたということ、
日本国民を救えるかどうかは、彼の心次第だったということ、
そして、このマッカーサーから信頼を得ることができた人物、それが吉田茂だった、ということだ。

吉田茂は、人一倍誇り高く、頑固で、イエス・ノーがはっきりした人物だったらしい。
マッカーサーが、葉巻好きの吉田茂に対して、物資不足で葉巻が不自由しているだろうからと葉巻をすすめたところ、「そいつはマニラ産でしょう。私はハバナ産しか吸いません」と断ったというエピソードがある。
ジョークのつもりだったかもしれないけれど、相手を怖れることなく、毅然と態度を表明する人物だったからこそ、マッカーサーも彼を信頼できたに違いない。

吉田茂の写真パナマ帽をかぶって庭を散策する吉田茂

もうひとつ、こんなエピソードも見つけた。
彼が在英国大使だった時に、馬術の心得のある吉田と娘の和子氏がハイドパークで馬に乗っていた時に、彼女が馬上から振り落とされた。
「早く乗り直せっ!」という吉田の声に、彼女も必死で馬に飛び乗り、馬に乗りつづけた。
そして、公邸まで戻ってきて初めて、「どこか怪我はなかったかい」と吉田が優しい声を掛け、「ああしなかったら乗り手は馬を怖がるようになり、二度と馬に乗れなくなる。馬も相手をばかにするんだ」と娘に話したということだ。
圧倒的力を持つ米国に相対峙した男。
その彼に流れているメンタリティーを理解することができたような気がした。

1967年10月20日、吉田茂はこの大磯の邸宅で生涯を閉じる。
その前日、吉田は突然「富士山が見たい」と言い出し、二階の居間の窓を開けさせ、夕日に輝く冠雪の富士山をずっと眺めていたそうだ。
ここから見ていたのかな?と思い、西側の窓辺から眺めてみた。
厚い雲は、富士山を見えなくしてしまっていた。

ゴールの小田原宿へ

小田原の街の写真遠くに小田原の街が見えてきた

吉田茂邸を出ると、雨はすっかりあがっていた。
さあ、先を急ごう。
バブルの前の時代に、芸能人の水泳大会が能天気に行われていた大磯ロングビーチを過ぎて、ひたすら西に進んでいくと、海岸線の向こうに町が見えてきた。
ゴールの小田原宿だ!
時刻は3:15pm。
このまま順調に行けば、日暮れ前には到着できる。
ただ、ゴールに近づけば近づくほど用心深くせねば、と自分を戒める。
徒然草に確かそういったエピソードがあったはず、と思いながら、慎重に歩いていく。

酒匂橋の写真酒匂橋を渡る

国府津駅を過ぎて、酒匂川に差し掛かる手前で、休憩をとった。
「江戸時代には、この川には橋がなかったんだよなぁ」
橋を渡る僕とは違い、川越人足の力を借りてこの川を渡った江戸の旅人は、時間的にもハンデがあっただろう。
こうしてここまで歩いてきてみると、江戸の旅人の歩きの速さと、足腰の強さを実感する。

夕暮れの小田原宿の写真夕暮れの小田原宿

のんびりと休憩していたら、日が傾きだした。
酒匂川を越える頃には、雲が夕日に染まりだした。
そして僕は、小田原宿にたどり着いた。

ゴールの写真ゴール

江戸の旅人と同じ行程を辿ることができたこと。
そして、同じルートを歩き、足を引きずりながらゴールした16年前の自分を越えることができたこと。
このダブルの達成感が内側からこみ上げてきた。
とりあえず祝杯をあげよう!

生ビールで乾杯の写真生ビールで乾杯だ!

小田原ちょうちんを掲げている居酒屋に直行して、生ビールを注文した。
昨日の4:00am、日本橋を出発して、ここまで歩いてきた。
ただそれだけのシンプルな体験が、僕をちょっとした冒険家気分にさせていた。
江戸時代も、こうして小田原宿で酒を飲んだのかな。
目に見えない江戸の旅人と一緒に、今回のチャレンジの達成を祝って乾杯した。

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