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【第13回】みちびと紀行 ~東海道を往く(神奈川宿~戸塚宿) みちびと紀行 【第13回】

神奈川宿から保土ヶ谷宿へ

11:45am、本覚寺に着いた。
神奈川宿の入り口は、もう目と鼻の先だ。
江戸時代の神奈川宿の浮世絵では、海が間近に迫っているけれど、今ここからは海は見えない。
かつての入江は、横浜のビル群に埋め尽くされてしまった。

本覚寺から横浜のまちを見渡す写真本覚寺から横浜のまちを見渡す

日米修好通商条約を締結し、米国の初代駐日公使となったタウンゼント・ハリスは、横浜が開港したとき、この本覚寺をアメリカ領事館とした。
渡船場に近く、丘の上にあり、横浜を眼下に見渡せることが、その決め手となった。
生麦事件では、襲われたイギリス人4人のうち、負傷した2人がここまで逃げてきて、米国人医師のジェームス・カーティス・ヘボンから手当を受けた。
あの、「ヘボン式ローマ字」のヘボン博士だ。
生麦事件の現場からこの本覚寺までは、歩いて結構な距離だったので、彼らが馬に乗っていたとしても、負傷した体を揺らしながらの逃走は、さぞしんどかったことだろう。

ペンキで塗られていた本覚寺の山門の写真ペンキで塗られていた本覚寺の山門

この本覚寺は、米国領事館時代は、黒、赤、緑、白など、色とりどりのペンキで塗られていたらしい。
今の感覚で当時の美意識についてどうこう言うことは慎みたいと思う。
けれど、「うっすらとペンキの跡が残る」とされている山門も、よくよく目を凝らさなければわからないほどにペンキが剥げているのを認めて、僕は確かにほっとした。

神奈川宿の浮世絵の写真神奈川宿の浮世絵

いよいよ、浮世絵に描かれている神奈川宿の台町の坂道を上る。

料亭「田中屋」の写真おりょうさんが働いていた料亭「田中屋」

坂の途中に、「田中家」という料亭があった。
ここは、坂本龍馬の奥さんのおりょうさんが、勝海舟の紹介を受け、明治7年から1年間働いた場所だったらしい。
坂本龍馬は、今でこそ空港の名前になるほどの有名人だけれど、1963年に司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が世に出るまでは、世間ではあまり知られていない英雄だった。
当時、おりょうさんが「龍馬の奥さんだった人」と紹介されても、「誰、それ?」と言われていたことは想像がつく。この田中家で働いているときも、特別扱いはされなかっただろう。
随分と気の強い女性だったようで、他の海援隊士や土佐の龍馬の家族とは衝突することが多く、龍馬の死後は頼る人も少なかったらしい。
田中屋を出た後は、横須賀に移り、晩年の33年間をそこで暮らした。
ウィキペディアを見ると、「晩年は落魄し、貧窮の内に没した」とある。
人生が幸せだったかどうかは、その人生を生きた当人しか知り得ないことだから、他人がとやかく言うことに意味はない。
横須賀では例年「おりょうさんまつり」が開催されていて、屈指の英雄、坂本龍馬が、生涯愛してやまなかったただひとりの女性として、没後もずっとその名前は、確かに覚えられている。
それは、激動の時代を生き抜いた女性の供養として、十分にふさわしく思える。

台町の坂道を下っていく途中で、足に一瞬ちょっとした違和感を感じた。
日本橋からここまで、すでに30km以上歩いているので、そろそろ疲れや痛みが出るのは仕方がない。
近くの公園で一休みし、ストレッチをしてこわばったところをほぐした。
まだここから先に、保土ヶ谷宿、そして難所の権太坂が控えている。
慎重に足運びし、水分をこまめに補給しながら、先を急いだ。

「ハマのアメ横」、洪福寺松原商店街の写真「ハマのアメ横」、洪福寺松原商店街

山すその道を進むと、八王子道との分岐点、「芝生追分」の道標があり、そこから先、保土ヶ谷宿へと続く洪福寺松原商店街に入った。
「歩行者天国」ではなさそうだけれど、車が遠慮するほど、人や自転車が幅を利かせていて、活気がある。
この商店街、「ハマのアメ横」と呼ばれているらしい。
向こうに、相鉄線天王町駅が見えてきた。
この駅のあたりに江戸見附があって、ここから先が保土ヶ谷宿だ。「程ヶ谷」とも書いた。

保土谷宿、金沢横町の道標の写真保土谷宿、金沢横町の道標

日本橋を七つ立ち(午前4時出発)した江戸の旅人のうち、健脚の者は、第一泊目はこれより先の戸塚に宿をとり、そうでない者は、この保土ヶ谷で宿をとった。
保土ヶ谷宿と戸塚宿は、客引き合戦が相当激しかったらしい。
もし江戸時代にいたなら、「この先の権太坂はね、それはそれは大変な坂だよ。暗くなったらたまったもんじゃないよ。ここに泊まっていきなよ。」とでも言われていただろうか。
でも今は午後1時なので、そんな誘いには一切乗らなかっただろう。
先を急いだ。

権太坂を越えて、相模の国へ

川沿いの松並木の写真川沿いの松並木を西へ

川沿いに続く東海道を抜けていくと、やがて長い上り坂のふもとに着いた。
今日の最大の難所、権太坂だ。
箱根駅伝では、この近くの国道1号の坂を「権太坂」と称しているが、この旧東海道にある坂が、正真正銘の権太坂だ。
名前の由来は、旅人が坂の名を聞いたところ、道ばたの耳の遠い老人が、自分の名を聞かれたと思い、「権太」と答えたためであると。
きつい坂に似つかわしくなく、そんなのどかな話が伝わっている。
かなり長い上り坂で、おそらく昔は、海も見えて眺めも良かっただろうから、旅人は休み休み上っていったに違いない。

権太坂の中腹からみなとみらいが見える写真権太坂の中腹からみなとみらいが見える

今は、坂の中腹から、横浜のみなとみらい地区が見えている。

さらば武蔵国、よろしく相模国!の写真さらば武蔵国、よろしく相模国!

20分ほどかかって、ついに坂を上りきると、やがて、木が生い茂っている場所にきた。
境木延命地蔵尊がある森だ。
そう、この「境」が意味するものが、武蔵国と相模国の国境だ。
いよいよここから、相模の国に入っていく。

日本橋から9里目品濃一里塚の写真日本橋から9里目品濃一里塚

焼餅坂という名前の坂を下っていくと、その先の道の両側に、こんもりと盛り土の上で大きな木が枝を広げている。
江戸から9里目の、品濃一里塚だ。みごとに残されている。
こうやって、大切に保存されている一里塚を見るたびに、歴史を守り伝えていこうとしている地元の人への、感謝の気持ちが湧いてくる。

ここが東海道!の写真ここが東海道!

そこから先の東海道はちょっと面白い道だった。
ちょこちょこと曲がりくねり、いったいどこに連れていかれるのだろう。
と、思っていたら、車がビュンビュンと通っている横浜環状2号線を渡る歩道橋が、「旧東海道」になっていた。
ここに東海道が通っていた証を残すために、わざわざ歩道橋を作ってくれたのだろうか。
行政の粋な計らいに感謝する。

駅伝走者の気分になってきた写真駅伝走者の気分になってきた

さあ、いよいよゴールの戸塚宿が近づいてきた。
マンホールの蓋に箱根駅伝のデザインを見て、僕もランナーのような気分になってきた。
ゴールが目前になればなるほど、慎重に歩こうと自分を戒めた。

「開かずの踏切」の写真「開かず」だったことも、今は「良い」想い出

戸塚駅が見えた。
ここにはかつて、有名な「開かずの踏切」があった。
ピーク時には、1時間のうち57分間も閉じる踏切だったというから、今みたいなスピード重視の時代だったら、待つ人は心臓発作を起こすほどイラついたかもしれない。
いったい、どんな人がこの踏切で待ったのだろうか。
「すぐに開くかもしれない」という期待が、最長57分間の時間を奪ったのだとしたら、随分と罪作りな踏切だ。
そんな踏切も今は撤去されて、鉄のフェンスが線路を遮断している。

16:25pm、日もだいぶ明るいうちに、戸塚宿についた。
ついに、1日目のゴールに到達した。
江戸時代の健脚の旅人に追いつけたようで、ひとまず安堵した。
ただ、今回のチャレンジは、ここで終わりではない。
彼らが2泊目の宿をとった小田原宿までが、ゴールだ。
足の調子は?というと、さすがにここまでの40kmの道のりがこたえて、じんじんとした疲労を感じる。
幸いなことに、関節の痛みはさほどないので、まだまだいけるだろう。
ただ、今日じゅうにこの足の疲労を回復させたい・・・。
あれこれと考え、今日はここから電車で10分の横浜まで戻り、宿泊施設を備えたスーパー銭湯に泊まることにした。
時間をかけて体のメンテナンスをしたのちに、軽くビールで、1日目のゴール達成を祝おう。
そして明朝、またこの場所に戻り、西に向かって歩き出す。
僕のチャレンジは、まだ終わっていない。

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