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【第11回】みちびと紀行 ~東海道を往く(高輪~六郷の渡し) みちびと紀行 【第11回】

高輪夜明けて、品川へ

「日本橋を七つ立ちしたら、どこまで行けるのかやってみて欲しい。」
この歩き旅の提案に乗っかってよかった。

「お江戸日本橋」の唄の通り、日本橋を七つ立ち(午前4時頃に出発)して歩いたら、高輪で夜が明けた。
時刻は、5:30am。
この「儀式」をしたおかげで、江戸時代の旅人が、影となって一緒に歩いているような気になる。
時代が変わったとしても、彼らの体験に近い街道旅になるはずだ。
彼らの見た景色、感動、空腹、疲労感を、精いっぱい感じとろう。

夜明け直後の泉岳寺の写真夜明け直後の泉岳寺

高輪ゲートウェイの、東海道をはさんで反対側には、泉岳寺がある。
江戸の旅人も、ここにある赤穂浪士の墓にお参りしたに違いない。
寄り道して泉岳寺の山門まで行って一礼し、早足で東海道に戻った。

今日の目標は戸塚宿。
日本橋からは約50kmの道のり。
まだまだ先は長い。

品川に向かって歩くと、左手に建設中の広大な土地が見える。
1年遅れでオリンピックが開かれる頃には、いったいどんなまちが生まれているのだろう?
まちづくりは、人が集まることを前提としている。
僕は人混みが好きではないけれど、このコロナ時代を経験して、人が集まる空間の尊さを知った。
「信頼がなければ、人は集まることはない。」
今回のコロナは、安全だとか秩序だとか思いやりだとか、そういう目に見えなかったことの大切さを知らせてくれた。
今、コロナ禍で起こっている混乱は、容易に人を信じられる人、人間に対して懐疑的な人、そもそも気にしない人、そういういろんな人々が一緒に暮らしている社会なのだから、当然起こり得ることなのだろう。
でも、その多様性の中でも、ある常識が共有されて、多くの人がヒステリックにならずに、コロナが収束するのを淡々と見守っているこの日本の社会というのは、人に対する何かしらの信頼がなければ成り立たないわけで、捨てたものではないんじゃないかな。
そんなことを思いながら通り過ぎた。

品川駅の写真5時51分am、品川駅も眠りから覚めようとしている

JR品川駅に着いた。
年を経るごとにアップグレードする品川駅も、朝6時前ともなれば、人はまばらだ。
ここは、そもそも品川ではなかった。
この駅が「品川」を名乗ったのは、1872年に、日本で初めての鉄道が品川・横浜間に敷設された時からで、品川とは、本来は、この先東海道をさらに西に進んだ品川宿のあたりを言った。
JR品川駅よりもさらに南に、「北品川」という京浜急行の駅があるというのが、そのことを示している。

品川宿の写真踏切の向こうに品川宿が見えてきた

左手に鉄道の高架線を見ながら歩くと、やがて大通りから左に逸脱し、何本もの鉄道線路が集中している様子を眼下に、橋を越えていく道が東海道だ。
映画の「シン・ゴジラ」では、この辺りが人類と新生物との最終決戦地になっていた。
京急の踏切の先に、商店街が続いている。
品川宿が見えてきた。

東海道第一番目の宿場町、品川宿

品川宿の写真品川宿、幅員約7mは、江戸時代と同じ道幅、まっすぐなようで少しうねっている

品川宿は、西に向かう人にとっては、江戸を出て一番最初の宿場であり、東に行く人にとっては、江戸に入る手前の最後の宿場町だ。
ここは、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで、江戸四宿と呼ばれていた。
江戸の昔は、「東の吉原、西の品川」と言われるほど、ずいぶんと賑わったらしい。
江戸から旅立つ人にとっては、まだ先が長いわけだし、こんなところで大切なお金を使うわけにはいかないだろうから、今の僕みたいにそそくさと先を急いだことだろう。
でも、はるか西から旅をしてきた人にとっては、ゴールを前に最後の酒盛りをして、旅談義に花を咲かせ、羽目外しをするのにはうってつけの場所だったのだろう。
そしてその時は、旅が終わる安堵感よりも、淋しさの方がまさっていたに違いない。
「この旅が終わってしまう」と。
長旅が終わる頃は、いつも淋しさがつのる。

ここで沢庵和尚が家光を出迎えた写真ここで沢庵和尚が家光を出迎えた

品川宿は、昔の面影を残しながら3kmにわたって続いている。
三代将軍徳川家光が、このあたりにある東海寺の沢庵和尚に会いにきたときに、出迎えた和尚とこんなやりとりがあったそうだ。

家光:「海近くして、東(遠)海寺とはこれいかに?」

沢庵:「大軍を率いても将(小)軍というがごとし。」

そんなしゃれたエピソードを示す「問答河岸の碑」も、地元の有志によって建てられた。
都心の人気エリアの近くにありながら、刹那的な時代の風潮に迎合せず、宿場の風情と歴史を守り伝えているこの土地の人々に頭が下がる。
道が人を生かし、人が道を生かしている。

東海道の脇道の奥のお寺の写真東海道の脇道の奥にはお寺が点在

ネコの写真江戸時代もこうしてネコが寝そべっていただろうか

午前7時ごろから、スポーツ用自転車に乗ったサラリーマンの通勤姿が増えてきた。
都心までちょうど良い距離なのだろう。
そんな人間の勤勉さを尻目に、ネコたちがあちらこちらで、優雅にくつろいでいる。

浜川橋の写真立会川に架かる浜川橋、またの名を「涙橋」

さわやかな朝の空気を吸いながら歩いていると、その気分に陰をさすような場所に着いた。
その名も「涙橋」。
この、東京湾に注ぐ立会川に架かる橋に着いたということは、鈴ヶ森刑場はすぐそこだ。
鈴ヶ森刑場・・・。

鈴ヶ森刑場と火あぶり

江戸には二つの大きな処刑場があった。
ひとつは、北の入口、日光街道沿いにあった小塚原刑場。
もうひとつが、この南の入口に当たる東海道沿いの鈴ヶ森刑場だ。
そして、そのどちらにも、刑場に向かう道に「なみだ橋」がある。
罪人と、その親族・身内は、この橋のたもとで今生の別れをした。

鈴ヶ森刑場の写真朝の鈴ヶ森刑場は、張り詰めた空気感だった。

江戸の旅人も、ここから先は厳粛な面持ちで歩いていったに違いない。
襟を正すようにして進んでいくと、鈴ヶ森刑場が現れた。
死者に対する恐れなのか、多くの命がこの場所で終わったという歴史からなのか、ピンと張り詰めたような空気が漂っている。
そこには、火あぶり用の鉄柱を立てた丸い礎石が、生々しく残っていた。
調べてみると、江戸時代の庶民に対する死刑の方法は6種類あった。
軽い順番から、下手人、死罪、獄門、磔(はりつけ)、鋸挽(のこぎりびき)、そして最も重い罪に対する処刑法、火あぶりだ。
江戸時代で最も重い罪、それは放火だった。
100万都市の江戸は、267年間に49回もの大火事を経験し、中でも明暦3年(1657年)の「明暦の大火」では、10万7千人もの死者を出したとさえ言われている。
関東大震災の死者数が約10万5千人だから、それ以上の災害だ。

恋人に会いたい一心で自宅に放火した「八百屋お七」も、この場所で火あぶりになった。
井原西鶴の文芸作品のモチーフとなり、芝居では、火の見櫓に上って狂ったように半鐘を鳴らすシーンで有名な彼女は、実在の人だった。
彼女の家は本郷にあり、一家は天和の大火で焼け出され、寺で避難生活をしていた。
そのお寺の小姓とお七は恋仲となり、やがて、避難生活を終えて寺を去った後も、恋人に会いたい思いがつのるばかり。
「自宅が焼ければまた会える」
そんな思いで、ついに自分の家に放火してしまった。
江戸の昔から多くの人の共感を呼んだからこそ、現代まで彼女の名が残っているのだろう。
けれど、僕にはまったく共感できなかった。
「そこまで恋心がつのるということが、果たしてあるのだろうか?」
「こっそり会いに行けばいいじゃないか。」

鈴ヶ森刑場をあとにして歩き出す。
すると、しばらくして、「いや待てよ」と思い直し始めた。
江戸の当時、女性が男のところに会いに行けば、相当ひどい噂が立つだろう。
しかも、寺小姓といえば、僧侶の身の回りの世話をする人だから、仏道修行をしている集団にとっては、女性が男に会いにくることは、甚だ迷惑なことに違いない。
自然体で会うには、やはり「寺への避難」という手段をとらざるを得ないのではないか、と。
「物事の価値は、それを手に入れるのがどれだけ難しいか、ということによって決まる。」
だから、手に入れるものが難しければ難しいほど、その代償も高くついたのだろう。
それほどの恋だったのだ。

それにしても、その寺小姓は一体どんなやつだったのだろう。
自分の方からお七に会いにいけばいいじゃないか。
お七がかわいそうじゃないか・・・。

歩きながらそんなことを考えていたら、多摩川の六郷の渡しに辿り着いた。
僕はすっかり、恋の炎に消えた八百屋のお七さんに、同情する気持ちになっていた。

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