【第5回】みちびと紀行~北国街道を往く(海野) みちびと紀行 【第5回】
午前7時30分に宿を出る。
朝の清冽な空気の中で、足取りも軽い。
初めて来たのに、どこか懐かしい町というものがある。
小諸もそんな町だった。
それにしても、この北国街道は、小諸を出ると、ますます坂を下るように伸びていく。
これまで、どれほど標高の高い場所を歩いていたのだろう、と思う。
遠くに千曲川が深い谷間を流れていくのが見える。
この道を進んで行けば、やがて、左手に川の流れを見ながら歩くことになるだろう。
北国街道は初めて歩く道だけれど、旧街道の特徴が残っているので、迷うことはなかった。
まず、道が、地形に合わせるように、緩やかにくねっている。
道祖神、石仏、一里塚を、道沿いにちらほら見かける。
寺社や、うだつのある大きな古民家、そして巨木も多い。
昔の面影がさりげなく残る道を歩くのは、すこぶる気分が良い。
「まっすぐな道で淋しい」
種田山頭火のこの詩の情感は、歩き旅をしているとよく分かる。
定規で引かれたような直線の道は、確かに合理的なのかも知れない。
早く進むことができるし、見通しが利いて安全だ。
けれども、まっすぐな道を歩いても旅にはならない、と僕は思う。
ビートルズは「long and winding road(長くて、くねった道)」と歌い、美空ひばりは「でこぼこ道や曲がりくねった道」と歌った。
そこに歌の情感があるし、旅や人生の味わいがある。
街道歩きでは、道沿いに四季折々の植物が楽しめる。
この季節、北国街道には百日紅の花が咲き乱れている。
この光景を写真に収めたい。
ちょうど、植栽がなされている、何とも趣のある民家に百日紅が咲いていた。ご主人が植木の手入れをしていて目が合ったので、「写真をとっても良いですか?」と尋ねると、「どうぞどうぞ」と柔和な面持ちで促してくれた。
「ここは今では私みたいな年寄りばかりになってしまって…」と、ぽつりと言う。
この道を歩く旅人がもっと増えて、道の途中の何気ない光景に心を動かし、出会ったその土地の人びとと、たわいもない会話を交わす。
そんな機会が増えたとしたら、庭の手入れにもますます張り合いが出て、集落全体に宿る生命が保たれていくのかもしれない、とふと思った。
海野宿についた。
この地域の歴史は古い。
古代、朝廷による国家統治が進められる中で、海野は、都から信濃を経て東北方面につながる「古東山道」の交通の要衝だったという。
海野宿の西には信濃国分寺がおかれている。
浅間山麓は、広大な原野と冷涼で乾燥した気候で、馬の飼育に適している
ここに、16の御牧(みまき)が設置され、多くの馬を朝廷に献上していた。
やがて、馬飼を生業とする勢力は大きく成長し、海野氏、根津氏、望月氏という地方豪族が派生していった。
この三氏は、本姓を滋野と称し、「滋野一族」として共同体意識を持ち、弓馬の道にも卓越していたため、しだいに地方武士団の中核として、この東信濃を統治していった。
海野宿の入口には、数本の巨木を擁したかなり立派な神社がある。
白鳥神社だ。
白鳥神社は、全国に111社あり、いずれも、死後に白鳥に化身した日本武尊命を祀っている。
日本中を歩いて旅したヤマトタケルは、考えてみれば「みちびと」としての大先輩でもあるので、神社では念入りにお参りした。
この地とヤマトタケルとの繋がりについて興味を持ったので、後で調べてみた。
ヤマトタケルは、関東を制定する際に、妻である弟橘媛(おとたちばなひめ)を失った。
彼女が、ヤマトタケルの行く手を阻む荒れる海を鎮めるために、人身御供として身を投じたからだ。
この亡き愛妻を思う気持ちが由来とされて、関東では吾妻(あづま)や嬬恋という地名があるという。
そして、ここ海野では、ヤマトタケルがこの地に滞在した際に、近くの小さな湖を見て、かの海難を思い出し、「この海も野となれ」と言ったとか。
これが本当に海野の地名の由来かどうかは半信半疑ではある。
ただ、そういう情感が地名の由来になり得ると考えるところに、日本人の優しさがこもっていると僕は思う。
白鳥神社は、真田一族が勢力を伸ばすきっかけになった場所でもあったらしい。
かつては戦国最強とも謳われた甲州勢だが、武田家が織田信長に滅亡させられた後は、その旧臣たちは、弾圧を恐れて各地に潜伏していた。
そこに本能寺の変が起こる。
信長がいなくなって自由の身になったとはいえ、既に武田の主家は滅びてしまっている。
そこで、白鳥神社の祭礼に集うという名目で、かつての旧臣たちが「同窓会」みたいにここに集まり、酒を酌み交わしながら、将来について語り合った。
話はだんだん、武田家亡きあと、新たに大将として担ぐとしたら誰がふさわしいか、という議論になり、そしてこの場で、真田昌幸を新たなボスにすべしと決したということだ。
この場に当の昌幸はいなかったが、あらかじめ彼の調略で、そういう方向に話をもっていくように仕組まれていたのではないかと言われている。
事実はともかく、多くの戦のエリートたちを再雇用できたのは、真田家にとって最たる幸運だったに違いない。
戦国の世を思えば、現代日本で起こっているような「人手不足」などという牧歌的な響きとは似ても似つかぬほどの、真剣なスタッフの採用、そして、真剣なボスの品定めが行われたはずなのだ。
雇う側、雇われる側、どちらも、生き残るためには、人を見る眼を確かなものにする必要があったのだろうと思う。
白鳥神社には、「海野氏、真田氏の氏社」と書かれた立て看板があった。
全国の海野さん、真田さんは、一生に一度でもいいからここに来た方がいい。
ちなみに、僕は静岡市出身で、周りには海野君、海野さんが、どういうわけかたくさんいたので、「海野」を「うんの」と読むことに全く違和感はない。
そして今、「どういうわけで海野さんが多かったのだろう?」とふと思ったので、調べてみた。
「なまえさあち」というインターネットのサイトで、苗字を検索すると、その苗字を持つ人口と全国分布がわかる便利なものがある。
調べてみたら、全国に海野さんは29,700人、1位は圧倒的に静岡県で、9,700人、2位は人口ボリュームがそもそも多い東京で、3,200人、3位は茨城で2,900人、そして、当の長野県には710人しか海野さんはいなかった。
海野家は、同族の望月家と同じように、その後武田家の家臣となり、武田信玄とともに、駿河に南下していったらしい。
大井川の上流に「井川」という地域があって、そこには海野一族が金の採掘と茶の栽培で勢力を保ち、「井川の殿様」と言われていたらしい。
静岡に海野さんが多い理由はどうやらそこにあるようだ。
いよいよ海野宿の入口に立つ。
そして、その街並みに息を呑んだ。
なんと美しいのだろう。
僕は今、いつの時代にいるのか…。
海野宿は、国から重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
この江戸の昔を彷彿とさせる家並みが、宿場町としての機能を失い始める明治以降も奇跡的に残ったのは、鉄道駅からは離れていたことと、この古くて大きな家屋を利用した蚕糸業が盛んだったことによる。
千曲川からの川風による風通しの良さも、蚕の天敵の害虫の発生を妨げて、好都合だったようだ。
しかし、それにしても、この海野宿には人が全くいない。
だんだん、大きな映画のセットの中に僕だけが取り残されたような、シュールな感覚になってくる。
どこかに人はいないか…?
炎天下の中で、僕は開いているお店を探し回った。
ようやく、海野宿資料館が開いているのを見つけ、そこに飛び込んだ。
ああ、人がいる…。
係の男性に、海野宿についてあれこれ尋ねていたら、ここにいた住人から預かったという写真のアルバムを、奥から引っ張り出して見せてくれた。
大正末期から昭和の戦後にかけての海野宿の写真だ。
僕はその中で、「昭和14年 本海野水道完成 消火栓放水試験風景」とメモ書きされた写真に見とれてしまった。
厳粛な顔立ちの大人びた青年たちと旦那衆が50名ほど、ずらりと並んでカメラの方向を見ている。カメラマンが「フリーズ」とでも言ったのであろうか、一人たりともニコリとはしていない。
ただし、そうかと言って、それは陰鬱な表情ではなく、責任感をもった顔つき、とでもいうのか、凛とした美しさがあった。
そのセピア色の表情は、確かにその時代を切り取っているように僕には思えた。
僕らはいつから写真に撮られる時にニッコリすることを強いられ始めたのだろう。
と、ふと思った。
それにしても人がいない。
「人が少ないんですねぇ。やっぱりコロナの影響ですかねぇ」と僕は聞いてみた。
すると、意外な言葉が返ってきた。
「いえ、昨年の台風からこんな感じなんです。」
例の、長野に大規模な水害をもたらした台風19号だ。
この台風で、令和2年10月12日に、海野宿の脇を流れる千曲川の護岸が崩壊し、国道から海野宿まで通じていた道路が切断され、白鳥神社の横にあったという第一駐車場もなくなってしまったとのことだった。
「でも、それでぱったりと観光客が来なくなったということなんですか?」
僕には、それがどれほどのインパクトなのかがよく理解できなかったので、聞いてみると、
「ええ、大型バスはそこからしか入って来れないんです」とのこと。
どうやら、この海野宿に来る人のほとんどは、観光会社のツアー客で、大型バスでやって来るんだ、と分かる。
「僕みたいに歩いて来る人はいないんですかねぇ」と聞いてみる。
「さすがにねぇ」と返されてしまった。
ちなみに、この海野宿へは、しなの鉄道の田中駅からも、大屋駅からも、だいたい25分ほど歩けば着く。
車通りの少ない安全な道なので、歩くのも楽しい。
とにもかくにも、ここは北国街道だ。
江戸時代の旅人の気分で、歩いて行くことを、僕はおススメする。
大型バスで行けないという理由だけで、行かないのはあまりにももったいない。
左手に、川幅の大きな急流が見えてきた。
僕は今、まさに千曲川沿いを歩いている。
さすが、千曲川というだけあって、無数に曲がりくねって、山肌を侵食した跡があちこちにある。
上田宿に近づくに従って、真田の家紋の六文銭をモチーフにした看板や公共物が増えていく。
上田宿には午後2時過ぎに着いた。
久しぶりに大きな町を見た気がする。
街並みが綺麗に整っていて、若者も多く見かける。しゃれた店も多い。
これはこれで、なんだかとてもホッとする。
今晩の宿に行く手前で、薬師如来像だろうか、マスクをしている。
コロナ感染にあえいでいる我々人間の側にいて、苦難を共にしてくれているようで、自然と僕の手が合わさる。
そして、感謝の念がわいてくる。
今日もここまで辿り着けたことに。
今日も無事に生きていることに。