【第4回】みちびと紀行~北国街道を往く(小諸) みちびと紀行 【第4回】
これは私が都会の空気の中から抜け出して、あの山国へ行った時の心であった。
今回の北国街道歩きには、「千曲川のスケッチ」を旅の本に選んだ。
この作品には、島崎藤村とその家族が、小諸で暮らした時の情景が、まさに写生の如く描かれている。
写生には、描かれた対象の事物だけでなく、それをどのように観察して捉えたのか、その作者の心境がそこに投影される。
僕は、この本を読み、そして、この小諸という土地に足を踏み入れたことで、この地に移り住んだ一人の文豪の心境に近づくことができたのかもしれない。
「みちびと紀行」では、歩き旅と出会いをテーマに、紀行文を寄せている。
「みちびと」とは、街道歩きの旅先で出会った人々、そして、旅人である僕自身のことを指しているのだけれど、旅先で出会う人は、実際に面と向かって会う人ばかりではないな、と気づいた。
既に今はこの世にはいない、昔の人々と、旅先で出会うこともあるのだと。
旧街道を歩いていると、ふと、昔日の過去にこの道を歩いていた人の思いに迫れたのではないか、と感じることがある。
昔も今も、「歩く」という基本動作は変わらないし、おそらく、同じ場所(道)で、同じ動作(歩き)をしているからこそ、共感するのだろう。
明治32年4月、藤村27歳の春、彼は、旧制中学校として認可されたばかりの私塾、小諸義塾の教師として招かれ、以後7年間、この小諸の地で過ごす。
前回、前々回の「みちびと紀行」では、この地を去り、再び小諸に戻ってきた若者、そして、全く別の土地から、この小諸に移り住んできた若者たちを取材した。
彼らに共通するのは、これまでの慣れ親しんだ人生を一旦決算し、これからの新たな人生に自ら身を投じた者の姿だった。
そして、この藤村も、例外ではなかった。
「千曲川のスケッチ」を読むと、改めて不思議な点が浮かび上がる。
この藤村が千曲川に移り住んだ頃には、彼はすでに「若菜集」で新体詩人としての名声を勝ち得ていた。
ただ、藤村は、それまでの過去を秘匿していたようで、極々限られた人を除き、小諸の人々は藤村の素性を知らなかった。
彼らは、藤村のことを、東京からふらりとやってきた紳士的な教師と思っていただけだった、と伝聞にはある。
僕にはここが面白かった。
藤村にとって、この小諸時代は、日本の近代詩壇に新風をもたらした詩人としての自分と訣別し、新境地を切り拓くための試行錯誤の時期に当たっていた。
彼は、この小諸時代に、彼にとっては初めての散文―5・7・5などの韻律や句法にとらわれない文章―「千曲川のスケッチ」を書きだす。
そして、小諸を去り、再び東京に戻る際には、この地で耳にした世間話をモチーフに書き上げた、藤村初めての長編小説「破壊」の原稿を携えていた。
「千曲川のスケッチ」の中で、藤村が上級生に、釈迦についての授業をしたくだりがある。その授業では、釈迦の四門出遊(しもんしゅつゆう)についてのエピソードが選ばれた。
釈迦がまだ青年の王子だった頃、彼が、王城の東西南北の四つの城門から出ると、それぞれ、老人、病人、死者、そして最後に修行者に出会う。そこで、王子は心を決して、「Life」を解かんがために、すべてを捨てて城を出て行った、という物語だ。
この話を生徒にした後で、藤村先生は彼らにこう語る。
「多勢居る諸君の中には実業に志すものもあろうし、軍人に成ろうというものもあろう、しかし諸君の中にはせめてこの青年の王子のように、あらゆるものを破り捨てて、坊さんのような生涯を送る程の意気込みもあって欲しい」と。
同じく「千曲川のスケッチ」の後段で、藤村はこうも語っている。
「旧いものを毀(こわ)そうとするのは無駄な骨折だ。ほんとうに自分等が新しくなることが出来れば、旧いものは既に毀れている。これが仙台以来のわたしの信条であった。来るべき時代のために支度するということも、わたしに取っては自分等を新しくするということに外ならない。このわたしの前には次第に広い世界が展(ひら)けて行った。」
僕は、この「千曲川のスケッチ」を読み終わる頃に、なぜ島崎藤村が小諸にやって来て、それまでの人生を隠して、7年ものあいだ暮らしたのか、謎が解けてきたように思った。
「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか」
この言葉には、藤村が、それまでに築いた名声・地位に安住することを拒絶し、素のままの自分として生き、そして新たに生まれ変わることに対する決意が込められている。
そして、その新生のためには、小諸での雑音のないシンプルな7年間の暮らしは、不可欠なものだった。
人生の軌道を変え、自己を更に成長させるためには、今も昔も、新たな環境を必要とするのだろう。
「千曲川のスケッチ」の中で、藤村はこうも語っている。
「実際私が小諸に行って、飢え渇いた旅人のように山を望んだ朝から、あの白雪の残った遠い山々―浅間、牙歯のような山続き、陰影の多い谷々、古い崩壊の跡、それから淡い煙のような山巓の雲の群、すべてそれらのものが朝の光を帯びて私の眼に映った時から、私はもう以前の自分ではないような気がしました。何となく私の内部には別のものが始まったような気がしました」と。
いつしか、僕の中で、文豪然とした藤村のイメージが、生真面目に人生を見つめ、自己革新に挑み続ける若者に変わっていった。
小諸での最後の夜、僕はまた、ふらりと島崎藤村の旧居跡を訪ねて行った。
なんとなく親しい友人に会いに行くような、そんな気分だ。
そこには、この場所に藤村が暮らしていたことを示す説明板と、有島武郎の筆による石碑が佇んでいるだけだった。
「栄光の過去」と決別したかった藤村にとっては、おそらく迷惑な代物だったように、今は思える。
でも僕は感謝している。
この場所に彼が確かに生きていたことを思い浮かべ、こうして心の中で対話できたのだから。
藤村は、のちにこんな言葉を残している。
中山道の馬籠宿にある藤村記念館で、僕がメモした。
「人の世には三智がある。学んで得る智、人と交わって得る智、みづからの体験によって得る智がそれである。
さういう自分は今日に行き詰まっているばかりでなく、出発のそもそもからすでに行き詰まっていた。でも、歩いて出るたびに道が開けた。地に触れるたびに活き返った。」
僕は改めて、長年の友と邂逅した気分になった。
「そう、僕も道を歩くたびにそう思ったよ」と。
明日は早い出立。
上田宿をめざして、北国街道を歩いて行こう。