しのだひろえの歩っとタイム Vol.28
銀座の“端“の“橋“を歩く!?~東京・銀座裏道さんぽ③~
三十間川沿いの歴史から地下通路まで、ふだん通り過ぎている道も目線を変えれば興味のかたまり。今回もまた新しい視点で銀座を歩いてみよう。
銀座の地下通路といえば三原橋
前回GINZA SIXへの地下通路をご紹介したが、かつてこのあたりには「三原橋地下街」があった。三十間川にかかっていた三原橋の下、三十間川が埋め立てられた地に1952年(昭和27年)12月1日に開設された地下街で、2014年(平成26年)4月に入居していたすべての店が閉店し地下街は閉鎖となっている。
ここでみなさん、お気づきだろうか。この銀座裏道さんぽでは京橋から始まり、紀之国橋跡、三原橋と歩いてきた。つまり銀座には「橋」が多いのである。他にも新橋、数寄屋橋など、橋のつく場所はまだまだある。
銀座・橋めぐり
改めて江戸地図をみると、銀座という街は川に囲まれ、その川にかかる橋をいくつも見ることができる。
現代地図
江戸地図
当時の様子が分かるのが、銀座三原通りを下った先にある御門通りの芝口御門跡だ。三十間川と汐留川が合流している様子や汐留川にかかる新橋が表されている。
これはもしかして「銀座の端の橋」を巡るのも面白いのではないか。なにかとてつもなく面白そうだしワクワクする。そうとなれば、さっそく歩こう。
25の橋をめぐる
銀座にはいくつの橋があったのか(あるのか)だろうか。芝口御門跡から反時計回りに、
- 新橋
- 蓬莱橋
- 汐先橋
- 新尾張橋
- 千代橋
- 采女橋
- 万年橋
- 祝橋
- 亀井橋
- 三吉橋
- 新富橋
- 新金橋
- 白魚橋
- 水谷橋
- 京橋
- 紺屋橋
- 城辺橋
- 有楽橋
- 新有楽橋
- 丸の内橋
- 数寄屋橋
- 山下橋
- 新幸橋
- 土橋
- 難波橋
と25の橋があったようだ。
では早速、「新橋」から反時計回りにスタートしていこう。
銀座に残る踏切跡
「新橋」は番地でいえば銀座八丁目、博品館がある場所といえば分かりやすいかもしれない。東京高速道路には「銀座新橋」と書かれているのが分かる。
博品館前から銀座四丁目方面を眺める。この道をまっすぐ進めば京橋に突き当たる、まさに銀座といえばこの通りを思い浮かべる人も多いはずだ。
東京高速道路に沿うようにある御門通りを歩けば「蓬莱橋」に到着する。昭和通りの交差点にあたる「蓬莱橋」は交差点や歩道橋の名称として残っており汐留料金所も近い。
「汐先橋」にむけて、さらにまっすぐ歩く。私が知っている銀座とは少し雰囲気になり、気がつけば道を間違って歩いてしまった。この道でいいのか違うのか、いったいどこに向かって私は歩いているのか・・と少し焦る。そういえば人生にもたまにこういうことがある。いや、よくある。
軌道修正して、「汐先橋」に向かう。途中で私の心が躍ったのは、銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機「浜離宮前踏切跡」である。
保存理由には「元この高速道路の下には汐留川が流れ、鉄橋も架かっていました。汐留駅は、わが国の鉄道開業当時における始発駅の新橋駅でしたが、大正3年(1914年)東京駅が中央駅になると、ここは貨物駅になりました。大震災後、築地に東京市中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運搬のための線路がしかれ、大きな働きをしたのです。(原文まま)」とある。続いて「都民の暮しの台所を支えて来たこの信号機を、国鉄廃止に当たり捨て去られるのにしのびず・・(略)」という文章からは、この信号機が活躍した時代を残したいという想いが伝わってくる。
昭和62年4月に国鉄が分割民営化された当時は、社会的にも大きな変化だったわけだが、当時の暮らしぶりを思い出させてくれるものは今となってはなかなか出会えないもの。信号機を眺めていると昭和から平成を迎えるこの頃を思い出す。
さて、そこから少し歩けば「汐先橋」である。「汐先橋」交差点は大きくきっと昔は大きな川の流れだったと感じさせる。
ピンときた道に一歩踏み出す
歩くことは自由だ。もともと銀座の裏道をぶらっと楽しむつもりだったから、銀座の橋を巡るとは思ってもいなかった。面白そうだと思ったからなのだが、そういう瞬発力もきっと暮らしや人生を楽しくするエッセンスなのかもしれない。ピンときた道に一歩踏み出す、違ったら元の道に戻りまた歩く。本当に歩くことは人生のようだ。
<出典>